性暴力被害経験に関する経験談


掲載の許可をいただいた経験談を掲載しています。

性暴力被害について社会に伝えるため、経験談を寄せてくださった皆様に、感謝申し上げます。


*人によって、フラッシュバックを引き起こすかもしれない内容もあります。

*ご自身の体調を大切になさって、気分が悪くなったら閲覧をお控えください。

*内容は、個人が特定され得る情報については、匿名化のため変更を加えさせていただいております。

*よろしければ、下にスクロールしてお読みください。









小学校低学年の頃に年上の姉に三年間、陰部を舐めさせられていた断ると威圧や暴力をしてきて怖くて断れずにいた。小学校高学年になってから我慢の限界で親に話して家族会議に。姉は私の目の前でハッキリしていないと断言した。大人になっても、二人きりのことがあると体に触れてきたり、自慰行為を見せつけてくるので距離を置いている。




実父による性的虐待(性交なし)。年齢を重ねてから実父からの行為が「性的虐待」だと知る。数年前に実母に告白。その後複雑性PTSDを発症し、告白以前に結婚した夫との生活が困難になり別居、離婚。その後、故意に自室の窓から落下し、頚椎を骨折したが幸い命は助かる。現在、心身ともに仕事をすることができず、生活保護を受けながらの一人暮らし。定期的なカウンセリングを受けている。現在は精神的には安定しており、機会があればインタビューなどを受け、話をしたいと思っていた。心理士の先生にもその話は何度もしていて、特に制限は受けていない。もし需要があるならば、是非インタビューを受け、自身の話をする機会を与えて頂けたらと思い書き込みをさせて頂きました。




性被害について一番古い記憶は、幼児の頃です。実家に出入りしていた業者のお兄さんに私はよく懐いていました。お兄さんは若い青年であったと思います。

ある時そのお兄さんが帰る際、戯れに彼が乗ってきた商用車の助手席に乗り込みました。彼は運転席に座ると、おもむろに私の性器周辺を服の上から触ってきました。「本当に家に来る?」「そんなに僕のことが好き?」「ここ触っていい?」などと言いながら。車の外には父と母がいて、何が起きているのか気付かない彼らは私とお兄さんがいつも通り仲良くふざけあっていると思っていたのでしょう、私たちのことを笑いながら見ていたことを覚えています。当時の私は何をされているのかわかりませんでしたが、いつもと様子の違うお兄さんに恐怖を覚えました。車を降りた後も自分がされたこと、感じた恐怖の正体がわからず、両親にも何も言えませんでした。その後はお兄さんが家に来ても側に行かなくなりました。

高校生の時に当時あったことを母親に話すことができました。高校生になっても「お兄さん」は1ヶ月に数回自宅に出入りしていて、時々車を見かけたりチラと顔を合わせることがあり、その度にモヤモヤとした嫌な感じを覚えていました。しかし母に話した時も自分がされたことが性的な加害行為だとはっきり認識していたわけではなく、電車で遭う痴漢や露出狂みたいな「ヘンタイ」、気持ち悪いことをされたんだよね、くらいの軽い感じで話したと思います。母は黙って聞いていたように記憶しています。その後しばらくしてから、当該の業者が家に出入りすることがなくなったことに気が付きました。母が父に話をしたのだろうと思います。

子供ができた今、彼が幼かった自分にしたことを思い返すと、腹わたが煮え繰り返るような怒りを感じます。母に話をした当時高校生だった私が「痴漢や露出狂なんてよくあること、大したことじゃない」という認識だったこと、社会にそう思わされていたことにも、大きな怒りを感じます。




被害を受けたのは大学生の頃で、相手は別れた元恋人の男性です。

別れた後、同じサークル内の別の男性と交際を始めたところ怒りを買い、「傷ついたオレを慰める義務がある」「今の恋人をサークル内で孤立させる、鬱病で通院中の彼を自殺に追い込む」などと脅迫され、彼の部屋に連れて行かれて性交させられました。

その後もしばらく関係を求められ、サークルのイベント中にキャンパス内でみんなの声の聞こえる中、レイプされたこともありました。最終的には私がお金を支払い、サークルから少し距離を置くことで、要求は止みました。

彼はサークル内で慕われ信頼されていたため誰にも信じてもらえないし、人間関係にヒビを入れたくない思いから誰にも言えず、後ろめたさから恋人にも相談できませんでした。

そんなとき、ときどき遊びに来ていたOBの男性に初めて相談しました。親身に話を聞いてもらえて安心して二人で会うようになりましたが、次第に肉体関係を求められ、応じるようになりました。その後、私の秘密の苦しみを知る唯一の理解者として、愛もないのに、歪んだ隠れた交際が長く続き、自暴自棄になっていた時期もありした。

今結婚しているパートナーと交際を始めた頃も男性との関係は続いており、婚約した頃にそれが発覚してしまい、いったん破談になりました。パートナーにそこで初めて全てを話し、男性には決別の手紙を送り、自殺未遂などさまざまな葛藤の末にようやく結婚に至り、今は落ち着いた生活を送っています。

当時、私自身も弱かったのかも知れませんが、自分の意思で要求を受け入れたことで、「自分の責任、告発出来ない」と孤立し、ずっと秘密を抱えてしまいました。

最近のmetooムーブメントなどで、同じような思いを抱えて生きてきた女性たちがたくさんいることを知り、私の経験は個人の不幸ではなかったと気づきました。これからの世代にこんな思いは絶対にさせたくありません。

断りにくい状況から強制されるものでも深く傷付く性暴力に変わりません。何がレイプであるかの認識が改まり、被害者が守られる社会へと変わることを願っています。私の経験談が少しでもお役に立てたら嬉しいです。




小学生のときから同じクラスだった友達に中学生の時にレイプされました。

お互いに思春期で性に興味がある年頃で、普段から「セックスさせろ」と言われることも多かったです。勿論冗談だと分かっていたのでいつも取り合うことはありませんでした。

ある日の授業中、彼は私にいつものように「セックスさせろ」と言ってきました。(私たちは隣の席でした)始めは私も笑いながら拒否していたんですが、この日はいつもと違いました。いくら拒んでも同じ言葉を投げかけてきて、段々彼の声が大きく聞こえてくるようになりました。

周りの席の子たちに聞かれてきないか先生に聞こえてるんじゃないかと不安になって、でも授業中なので逃げることもできずに私は拒むことでしか意思を表せませんでした。

セックスを簡単に要求される女だと思われるのが怖かったのを覚えています。

そしてそのまま午前の授業が終わって午後の授業が始まると、また「セックスさせろ」が始まりました。

どうやったらこの言葉を言わなくてなるのかと考え始めた頃、彼は「胸を触らせたらセックスしなくていい」と言い出しました。

私はそれで済むのならと思い承諾してしまいました。

要求通り胸を触らせると、彼はこう言いました。

「セックスさせなきゃ今触らせたことをみんなに言う。言い方次第ではお前が触らせたことにもできる」と。

私はもう彼には逆らえないんだと思い、セックスする約束をさせられ実行されました。

結局彼には2回レイプされました。

実は私は彼のことが好きでした。

彼は付き合いたいと言っている別の女の子がいたし、セックスの内容も私を"女"という物として扱ったもので彼の気持ちはなかったのだと確信しています。

授業中という特殊な空間で好きな人から約束させられたセックスは、その後とても私を苦しめました。

私は彼を許したかったんです。好きな人が最低なことをしたと思いたくなかったので、彼の行動を正当化することで心の安定を図りたかったのだと思います。

高校は進学校だったのですが、"授業中"の時間はどうしてもレイプのことを思い出すし、そのうちに勉強自体ができなくなり大学進学を諦めました。

レイプから5年後に彼と再会し、私は彼ともう一度セックスしてみようと思いました。

これだけ私が悩んで苦しんだのだから、彼も同じだけ苦しんでいるのが分かれば許そうと思ったんです。

今考えると突拍子もない思いつきですが、当時の私には正当で大きな考えでした。

しかし、彼がしたセックスは私が期待したものとはかけ離れていました。そして私は彼を許せないと確信しました。

その後彼ではないその他の男性はどうなのだろうと、確かめるように手当たり次第男性とセックスをしました。

そのうち男性を見下しているのにすがったり、突然泣き出したりリストカットをしたりと精神的に不安定になっていき、20代の時に統合失調症の診断が下りました。

希死念慮やOD、男性を殊更怖がるといった症状を抱えながら長い間のカウンセリングを続て自分と向き合い、EMDRというトラウマ治療を経て、現在はほぼレイプを過去の記憶として捉えることができるようになりました。

ただ後遺症のようなものはあって、男性に好きという感覚が持てないことや、セックスに感情を持ち込めないというのがあります。

しかし今はそれも理解してくれている人と結婚できたので、あまり問題ではないと考えています。

今現在、同級生の彼のことは恨んだり怒ったりという感情はないのですが、冷静な感情として誰にも愛されずに死ねばいい。とは思っています。

一方、私はこれから先の人生は自分に幸せなことを選択して実行していこうと思っています。

彼に支配されていた時間を取り戻す訳ではないけれど、私は幸せになる権利があると自然に思えるようになりました。

レイプされたことは忘れられないし忘れちゃいけない事実です。できるなら受けなくてよかったことでもあります。

でもその事実があるからこそ今の私が成立しています。

悔しいけれどレイプやそれらを含んだ出来事は私のアイデンティティになっています。

それを認めてあげることが私ができる私への許しなのかなと思っています。

私の経験が少しでも役に立てばいいなと思います。




小学生の頃から兄に就寝中に部屋に入ってこられて陰部を触られたり舐められたりしていた。目が覚めると虐待されていて混乱した。翌日以降、あれは何だったのかと聞くと「お前に霊がとりついた」「除霊のために陰部をビデオで撮らせろ」などと言われ、小学生の私でもおかしいことを言っているのが解ったので断った。その後も何度も、何年間も繰返し寝ている間に虐待を繰り返され、そのたびに抗議した。そのときはもうしない、だから親には言うなと約束するのだが、毎回約束を破られ、結局高校生くらいまで続いた。家族にそれとなく助けを求めたが、冗談と思われて流され、それもとても辛かった。

表向き良好な家族関係を続けているが、心の底ではどうしても許せず、怒りながら糾弾する夢をたびたび見る。

最も大切にすべき家族を、自分の欲望のためにめちゃくちゃに壊し、しかも何度も裏切り、なのに保身にだけは余念がない、それが人間だということが人生の早いうちにすりこまれてしまい、今でも人を愛することがとても難しい。男性と同じ空間で眠ることができない。

子供の頃、他の親戚にも寝ている間にレイプされかかったことがあり、また、大人になるまで痴漢や盗撮や露出狂にも頻繁にあってきたため、もはや性犯罪はどんなに気をつけていても遭うものだと思っている。もちろん遭わずに済む人もいるけれど、自分の人生は「そういうもの」だと思っている。




私が中学生でクラスメイトにレイプされたことが原因でいじめられていた時に、優しくしてくれた男性と交際を始めました。彼に、自分の経験から性的な行為は控えたいと話しましたが、彼の家にいつも親が不在であったこともあり、彼は何度も無理やり私と性交しました。とても痛く嫌でしたが、彼の複雑な家庭環境に同情して別れられずにいました。最初の数ヶ月は、望まない彼の要求を断る努力をしましたが、かなわないことがほとんどでした。私が強く拒否すると彼は暴力的になったり自殺をほのめかしたりしました。そのせいか、だんだんと自分は性的な行為さえしていれば彼は満足なのだと思うようになり、彼の要求に無抵抗になり、性的な行為以外の時もずっと乖離したような状態が続きました。家にいる時も学校にいる時も何も希望が持てず、彼との性交の結果妊娠したら自殺する勇気が出るのではないかと、それを望んですらいました。彼と別々の高校に進学してから、ある日私は事故にあいました。その時の彼の冷たい対応に、自分が命をかけてきた相手は私の命を軽んじているということに気づき、ふと冷静になって別れることができました。しかしそれからの高校生活も、下ネタを言って女友達を笑わせることや、全ての相手の要求に応えた性交をするといった自分の性的な面でしか自分の自信を保つことができませんでした。自分を大切にしろと言ってくれる男性を信じられず、あなたも結局は私と性交するということを証明するために、私が無理やり襲うようなこともしてしまいました。とはいえ高校生活の3年間で、本当に私を大切にしぬいてくれた男友達も、私の性的体験をネタにせず真剣に聞いてくれる女友達もいました。そんな友人に支えられて、変わりたいと強く感じていたことから、大学進学に伴い地元を離れて新しい環境で新生活を始めました。私はこれまでの辛かった性的体験を癒し、それによる歪んだ考え方を直したいと真剣に考え、とても優しい男性に、自分の話を打ち明けました。理解してくれたその人が今2年以上付き合っている彼氏です。彼の機嫌をとるために望まない性交をせがんだり、性交中に涙が止まらなくなったり、彼には大変な迷惑をかけてきました。それでも、自分の複雑な心境と彼に望む対応を正直に話すことで、彼は私の不可解な行動を理解しようと努力してくれました。それ以外にも沢山の関連書籍を読み、自分なりに自分の癒しを実践してきました。私がいま自分の望まない性交経験について冷静に考察できるのは、友人や彼のもとで自分が嫌だったことを悲しむことができたからだと考えています。自分が悪いのかもしれない、真剣に聞いてくれないかもしれない、誰にも話せない、そう思っている人に、きちんと悲しむ場を提供していかなければならないと感じています。現在は卒業論文で性暴力被害の被相談者の支援について研究しています。



結婚前、OLをしていた頃、尊敬する上司から美味しいものをご馳走するから、二人で飲みに行こう、と、誘われ、そこでお酒を沢山飲まされました。若かったので、高級なお料理とお酒に酔ってしまい、開放された気分になり、そのままホテルに連れて行かれました。  

今となっては、はっきり断るべきだったと思いますが、今までの上司と部下の関係が気まずく、崩れるのが怖くて断ることができませんでした。後に、後悔しましたが、相手は尊敬する人でしたし、人生を狂わされるほどの大きなショックは受けていません。それからは、自分の行動を反省し、その後は二度と、関係を持ちたくない男性と、二人でお酒を飲むようなことはしなくなりました 。



実父による性虐待を受けた者です。 記憶による虐待は幼少時から主に小学生高学年です。時系列が曖昧なため中学まであったかどうかの記憶は定かではありません。

その後、成人式の晴れ着の胸に手を入れられて脱ぎ捨てた記憶、大学時代は深夜に部屋にこられた記憶もありますので、恐怖体験としては成人過ぎるまであったと考えております。

加害者はいまだに反省がなく、自分も忘れたから、忘れたら? という始末。そして娘として自分をまだ愛してくれるものと期待しています。長年、母の気持ちも考え、責めることなく甘やかしたツケが出たのだと反省しています。黙っていたのは自分が生き延びるためですが、加害者の成長の機会を奪う結果にもなりました。

一度のレイプでも傷の残る性的虐待が、家庭内で秘密裏に日常的に行われ、逃げることができない子供の恐怖、絶望、その後に続く長い後遺症があることを、ぜひ多くの方に知っていただきたいと思っています。

子供時代の性虐待は向き合えるまでに何十年もかかります。そのことを鑑み、時効撤廃を切に願います。後年、訴えられる可能性もあると認識されれば、犯行の抑止力にもなりますし、被虐待児が泣き寝入りすることなく、慰謝料請求もできる世の中になってほしいと願っています。たとえ親であっても犯罪は犯罪です。



DVを受け、軟禁されていました。相手に支配されていたので、性的なことで気をひくしか私はそこで暮らしていけませんでした。しかし、そういった私が自分を差し出すような行為自体も相手は嘲笑い、拒絶することで私を痛めつけました。あることをきっかけにその人とその生活から離れることができましたが、未だに他人に対しては隠された二面性があるにではないかと疑い、警戒してしまい、親密な安全な関係性が築けていません。でも、その代わりに一人で過ごすなかで自分なりの楽しみ方を発見し、それはそれで自由で満足しています。加害者は普通に会社の要職についていて、社会的には成功し、とある自助会で参加者に聞いた話では同じような加害行為を続けているといいます。私が被害を受けた時にきちんと裁かれるような環境であれば、被害を受ける人も少なくて済んだだろうと思います。ずっとそのことが許せず、歯がゆくて、腹立たしいです。



7年前の出来事となります。未成年だった私は、アルバイト中に男性上司から性暴力被害を受けました。密室で二人きりの職場でした。上司の口調は穏やかでしたが、あらゆる非対称な条件(雇用関係かつ指導者、離れた年齢、人生経験の差、体格の差等)を理由に拒否ができない空気でした。想像を超えた出来事に正常な認知が出来ず、体は硬直し、カウンターにある刃物で殺されるかもしれないと怯えました。迎合したふりをして、早く終わらせなければ逃げられないと、その時は思い込み、結果咽喉へ性器を挿入されました。行為後、脱力して直ぐにシャワーを浴びたのを覚えています。警察に被害届を出したものの、弁護士相談したものの、証拠不十分でした。自分の心の傷に振り回されて、しばらく落ち着いた生活が出来ずにいました。

 自分の回復を助けたのは、フェミニズムやトラウマ支援の書籍です。女性の体で生まれたことを後悔するのをやめて、性を肯定したいと感じました。セックスの際、自分の心を何より大切にして、「NO」を伝える練習を何度も繰り返しました。「NO」がいえる関係性は豊かなものだと、性被害に遭ったからこそ、気付けました。 

強姦罪の改正があり、再び揺さぶられました。当時強姦未遂と定義され泣き寝入りするしかなかった行為が、強姦と定義されるようになり、非親告罪となったからです。民事裁判の時効も過ぎていて、もう二度と自分は法的枠組みの中では闘えないのだと後悔しました。

 年に数回、嗚咽を漏らす夜があります。最近驚いたのは、精神医療系の資格の勉強の際、カウンセリングの話題にふれるたび、「私も気持ちを吐き出したい」と心が叫んでいるのが聞こえることです。自助グループを探しています。自分をきちんと受け止め、助けてあげたいと思います。 

体験は以上となります。




医療機関で堕胎後に研修台にされた、レイプのような体験が及ぼしたものについて

30年以上前です。一つ年下の恋人とSEXし、妊娠しました。

高校卒業と進学上京のバタバタしていた時期に生理の遅れが気になったものの、環境の変化と排卵日は避けていたからとそのままにしており、友人に促され受診した時には妊娠6ヶ月目前になっていました。
彼が高校生だったため両親からは出産を許されず、都内で一人、堕胎しました。
陣痛促進剤による堕胎分娩は14時間後に体内での胎児死亡で止まり、翌日は
死亡胎児出産のため子宮口を開く処置に同じく十数時間苦しみました。
腹部を強く押されてようやく体外に出た我が子は、男の子でした。

我が子を守れず殺してしまった罪に心身苛まれている中、堕胎後の後産が心配だからと子宮内洗浄の処置をされることになりました。

手術室には6〜7人の看護学生らしき人達がいました。その人たちのことは何も聞いておらず、医師が遅れている間に曝け出されたままの陰部を好奇心剥き出しで何度も覗き込まれました。疲弊し憔悴しきっていた私は「この人達は...?」と問いかけることだけで精一杯でした。誰も返事をしてくれませんでした。

だいぶ遅れてきた医師は、恋人の彼から堕胎同意書が届かない(そもそも、そんな書類のことは全く聞いていない)から、医師宛に届いた手紙(彼女のことをよろしく頼みます、という嘆願)を同意書の代わりにする、と私に読むよう突きつけながら手紙を貶し、この娘はお母さんを心配させていると怒り、手術室看護師に手術着の前をはだけて胸を出すよう指示しました。看護師は驚いて、「先生!」と抗議するように叫んだことを覚えています。それから全身麻酔が打たれてまだ効かないうちから乱暴に手術器具を膣に差し込まれ、あまりの痛さに「痛い!!」と叫んだ直後、意識がなくなりました。

意識が戻ったのは物置の中、ストレッチャーごと突っ込まれていました。
しばらく朦朧としていましたが、隠部や胸の異様な感覚が不快でナースコールを何度もしました。担当の看護師は「アソコを弄ると、ね...」などとよく分からないことを言い、気の毒そうな顔をしていました。とにかく尿道付近が腫れ上がって尿意らしき感じがあるのに排尿できない。膣も入り口から腫れ上がって、堕胎のための処置や出産した時のダメージとは比べ物にならないような状態になっていました。

麻酔で意識がなかったとは言え、体に残る不快感は異常です。
当時は性的経験自体も浅かったため、 腫れ上がっていたのはクリトリスや乳首といった性感帯であったことがわかりませんでした。

事前の説明も断りもなく、同じ年頃の人達の目にプライベートゾーンを晒されたことだけでもいじめのリンチのようで、とても辛いのに。
カテーテールや触診の研修台にされたことは間違いありません。
もしかしたら、本当にレイプされていたのかも知れません。

そして。埋葬許可が必要な月齢のはずの我が子は行方知れずとなりました。
私の戸籍にも何も記載されていません。

退院後、これらのことは恋人の彼へ書き送った手紙以外に誰にも話しませんでした。体調も経血が止まらなくなったり、ホルモン異常が続きました。
寮生活する中で一人、事情を知っている友人(受診に付き添ってくれた)が部屋に招いて紅茶を淹れてくれる時だけ、少しホッとするような感じでした。

その寮も一年未満で出なければならず、アパートを探して引っ越してから友人とも会えなくなりました。恋人の彼は受験期を頑張り、大学進学して新聞奨学生となり、都内に出てきました。
やっと近くなって会えるようになった、と喜び安堵したものの、奨学生の彼は休みがろくになく、月に一度会いに来てくれるのがやっとの状態でした。
堕胎から1年経ち、学校の健康診断で私は肺結核を患っていることが分かり、隔離入院する状態ではなかったものの体力が根こそぎ無くなっていき、心身がとても辛い日々となりました。

そして、彼が会いに来てくれたときにそれは突然、起こりました。
子宮洗浄処置の時のことを鮮明に思い出し、耐えられなくなった私は彼の行為を止めました。「どうして?!」と問う彼に、やっと告げた一言は「手術を思い出した...」

それから彼は会いに来なくなりました。最もそばにいて欲しい時に。
数ヶ月して電話をよこし「親友になってほしい」「あなたのことが重荷なんだ」「他に好きな人ができた」などと言って別れを切り出されました。

体調が優れない私は、一度郷里へ帰って療養しながらの就職を決めていました。彼とは、我が子の命日に連絡を取り合って冥福を祈る、何かあったら必ずかけつける、と約束をしました。

どうして妊娠してしまったのか、誰も教えてくれませんでした。

その後、友人の勧めで付き合うようになった人と別れ話をしようとした時に性交を断れず、再び妊娠してしまいました。その時に初めて、学校で教える知識は万全ではない、実際には安全日などと言うものはなかったのだと身をもって知った次第です。

妊娠の経緯は、保健の授業でオギノ式を教わり、排卵日を避けたら妊娠しないのだと認識していたためです。子供には罪がない、再び堕胎はしたくないからと泣く泣く結婚して産み育てました。
体調はいつも優れず、心の底から笑うこともありません。授かった子に、産んであげられなかった子の一部が宿っていると信じ、子どもを育て上げたら離婚して性教育に関わりたい、恋人だった彼に真実を伝えたい、と願うことが支えでした。


そして現在、私はその願いを叶えました。但し、非常に辛い思いをしました。
セカンドレイプなど、予期していなかったことにみまわれました。
また、PTSDやフラッシュバックという言葉を知り、彼との別れの原因のひとつとなった出来事の理由がわかりました。




幼少時に、1階のトイレに行きたいと言ったら、こうすれば行きたくなくなるよと、父親に、陰部に手を入れられて、動かされ、それが何日か続いた後、陰部にペニスを入れられて、恐怖と痛みでギャーという声を出し、恐怖におののきながら、時間が過ぎるのをただひたすら待っていました。母親が夜中に遊びに行く時だけ、弟と同じ部屋で寝ている私を、ニヤリとしながら、来なさいと静かに薄ら笑いを浮かべて呼び出されるのが、いつも恐怖で、いつ、呼び出されるのが毎日母がいないと夜が怖くて、呼び出されると、私自身が動かさなければならず、眠さと痛さと体力が持たず、緩むと殴られ、口でのフェラまで、させられ、小さな口は歯が当たり、当たらないようにしないと殴られ、口も痛くて、地獄の日々でした。

 同じ時期にお腹が痛くなり、トイレで屈むと、ものすごい痛さとともに、陰部から何か出てきました。5センチ位のピンクの黒いものがついている暖かいのでした。音がしたので、泣き声だと小さい私でも、すぐに赤ちゃんだと分かりました。手で包み、母を大声で呼ぶと、父が飛んできました。

父に見せると何をされるか分からないので隠しましたが、すぐにあかんぼん坊を取られて、指を3本ちぎり、水洗トイレに流したのてす!どんなに怖くて冷たくて、位便や尿の中に行ってしまったかと思うと、気が狂いそうでした。その後すぐに母親を呼び出し、洗面台に水を張り、顔をその中につけて暴力を奮っていました。3ヶ月位の胎児だったので、小さい私が産んだとは思っていなかったのでしょうか? 

その後母親が夜に家を出なくなったので、しばらく止みましたが、小学校に入り、私は頭が賢かったので、バラされるのが怖くて、小学校低学年の時に、別の理由を付けられて、2階のベランダから落とされて、後頭部を打ちました。その足で母も刺されて、私は気を失い、意識がもどると、自分の部屋のベットに寝かされて、私は服を脱がされていて、やっておいたから。とニヤリと薄ら笑いを浮かべて、話したらまたこうするからなと去っていきました。それからの1週間帰ってこず、私は最初は、言葉も出ず、呂律が回らないながらも少しずつ話せるように頑張り、1階に行くと、妹のベビーベッドで寝かされた母が寝かされていました。 

それで許されたのかと思ったのか、小学校高学年の時に、父が自殺未遂をすると、私に言い、お慰みでSEXされました。抵抗しましたが、私はシンナーをかがされて、身体も動かなくされました。仕事の関係上シンナーを扱う会社だったので、簡単に持ってくるとことが出来たようです。

 幼稚園の最初のSEXの時は、つたない言葉で周りに話したこともありますが、ほかの家庭だと何も手を出さない大人ばかりでした。幼稚園の先生には、言うなと言われていたので、毎日職員室に行って遊んでいた私が急に来なくなって、誰とも話さなくなったのを、心配していたようです。母から聞いたので、母にも話しましたが、それは先生に言わなきゃねと言うので、言わないでと言うと、わかったと言い、それ以上は何も触れず、何もせずでした。絶対に家にいて、お父さんを叱ってと言うと、わかったと言うとので、私は少し安心していましたが、今思うと、何もしなかったのが、その後も何度か性的虐待を受けているので、わかります。虐待を受けた日の次の日に、幼稚園から帰って、母に何があったか聞かれた時は、言葉が出てこず、縦に揺れ始めたので、母はなぜ何も言わないのか怒りましたが、弟が何かあったんだという事にすぐに気づいてくれたので、はなすことができて、何も解決はしなかったけれど、気づいてくれたことが嬉しかったのを覚えています。その後は、学校でも人とほとんど話さない。と言うよりは、学校に行ってみんなに会うと、喉がしまって苦しくなり、言葉が出てこなくなりました。それでも学校に行かなければ母親に車で連れていかれ、シンナーをかがされフラフラになったところをドアを開けて足で蹴り落とされるので、学校に行きました。私はどうしたらいいか考えて、勉強に集中するようにしました。休み時間になると集中が切れて、頭が割れるように痛くなるのが、ベランダから、落とされたあとから始まりました。保健室に毎日、1時間ごとに行き、熱を計って、ないのを確認して、先生には返されていました。家に帰ると頭痛はいつも止んでいました。学校は苦痛でしたが、帰ると、ザリガニ釣りが待っていたので、ザリガニを釣っていました。釣りながら、ぼーっと友達が出来ないことや、赤ちゃんのこと、父親のこと、母親のことを考えて、どうやったら生きていけるかを考えていました。弟と遊んでいる時は嫌なことは忘れていました。弟も、その家族の中で生きるのは、大変だったと思いますが、被害に遭っていたのは、主に私だったので、弟がやられずに安心もしていました。弟は優しかったです。幼稚園の頃から、パニック障害などがもう出ていたかもしれません。ベランダから、落とされて、もちろん病院にも連れていってもらっていないので、高次機能障害もあると思います。ベランダから落とされるまでは、忘れ物もなくしっかりしていましたが、忘れ物も多くなり、色んなことが出来なくなっていましたが、友達には心の中で笑われていたかもしれませんが、紙に書いて確認していました。書くのが遅くなっていて、何を書いたかわからない時もありました。そんな時は母親にもかなり怒られましたが、先生に怒られなさいと障害が出ているのを気づかず、普通の子育てを、何も無かったのようにしていましたね。

 父親は、朝早く出て、夜遅くに帰る生活で、普段は会わない生活になっていました。自営業だったので、休みの日は家族で取引先の仕事をしていました。犯罪者が家にいるのが当たり前の感覚になっていて、今もその感覚は変わっていないと思います。小学校高学年の時に無理やり慰みで性的虐待を受けたあとに、猫を貰ってきたといって、私は猫の面倒を見なさいと言われたので、部屋で猫とこもるようになりました。可愛くて、世話をしていると辛い事も忘れていました。世話をし、とにかくよく動いて、忘れることが1番よかったと思います。 中学な時に、私が荒れだしたので、父親が家族を捨てたくなってのか、今度は道端でSEXされました。昼間だったので、助けてと道を歩いている方に助けを求めましたが、小さな子連れのお母さんだったので、無理でした。そのお母さんも、歩いて通り過ぎるのがやっとだったと思います。その後私は母に話しましたが、信じてはくれず、離婚して!と大声で言うとやっと決心し、別れることにしたようです。父親にはその頃、他に彼女がいて、その女性に子供が出来たようです。荒れた私。幸せな家庭を作りたい。そのおかげで、私が道端で犠牲になったのです。母が信じてくれなかった時に、彫刻刀で思い切り手首を切ろうとした時に、幻聴が聞こえてきました。私はどんなあたなもどんな時でもあなたを愛していると。涙が沢山出て、手首を着るのをやめました。その後、学校でも集団リンチにあったり部活の顧問にレイプされたりしたので、そな頃から、幻覚が酷く、多分中学のときだったので、統合失調症を発症したと思われます。その後離婚して田舎に帰り、そこでも日常生活は大変でしたが、工夫してなんとかおちゃらけたりしながら、周りの愛情に包まれ過ごしていました。しかし、母親がすぐに男性を作り、家事を押し付けて、遊び回っていたので、日常生活もままならないのに、大変な日々でした。中学から高校までは、悪夢ばかり見て、電気をつけて寝ないと眠れない状態が続きましたら。周りは良くても、家族は何も変わらない。酷いいじめが続きました。高校を卒業し、彼氏が出来ても、ちゃんとした人は出来ませんでした。仕事に打ち込んで、嫌なことを忘れましたが、高次機能障害があるので、周りは少し何かあると気づく方もいて、試行錯誤で仕事を教えてくださいました。最初は工場の仕事。そしてドラッグストアでの仕事もできるようになっていました。しかし、ついては行けず辞めさせられるような形に持っていかれて、辞めざる得ず、東京に出て妹と暮らしましたが、プライドが高く、健常者の妹に、食べるな、風呂に入るな、電気を使うなと言われて、仕事をしながら、3週間で10キロ落ちていました。また言葉が出ず、涙が出て、パニック障害を発症していたようです。友達の男性が東京に遊びにきときに、パニック発作を起こして、何も考えられず、言葉が出てこず、そのまま田舎に帰らされる羽目に。パニック障害で、東京にいるよりは良かったのかなと今にして思えば思いますが、その後すぐにその連れて帰られた男性に同棲を迫られ、彼は広島での就職だったので、そのまま広島へ行くことになりましたが、何もかもが怖くて、心療内科に受診しました。東京でのことを話したところ、パニック障害という診断が出ました。でも、薬を飲まずに頑張ろうと思ってしまい、とにかく掃除洗濯今まで通り動きました。一人でいると、子供の頃の思い出が思い出されて、泣いてばかりいましたが、それではいけないと、頑張ろうと思った矢先に、息子を授かりました。4歳の頃よりの、2番目の子供で、どう折り合いをつけていい分からず、ごめんね、最初の子供じゃないんだよ。と辛い気持ちだったり、父親から性的虐待を受けた私が母親になるなんてとか、複雑な辛い気持ちでした。でも、エコーを見ると幸せな気持ちになったりと、不安定な感情の中半年が過ぎましたか、それでもこの子を幸せにしたいと外に出るのは怖かったですが、家の中で動いて、過ごしていました。段々前向きに、この子をちゃんと育てよう!と思えてきました。息子を産んでからも、パニック症状で外に出るのは怖かったけど、人のために少しのことでもなにかしたり、息子と2人で遊んでいる時間が楽しくて仕方がないと幸せな日々でした。しかし、父親とは、母は連絡を私が取らないと、養育費や教育費を出してもらえないので、最初離婚後連絡を取らされたのは、短大に行った時でした。出してくれてありがとうと連絡を取りなさいと強制的でした。私は働きながら専門校に行くと進路を決めていましたが、母の思うところに行かないと許しては貰えませんでした。その後、母は私は話したくないから、たまに連絡を取ってちょうだい。そうしないとした2人の教育費が出してもらえなくなるからと言うことで、二人の間に入っていました。子供が産まれてからも、その頃、妹が大学だったので、連絡は取らざる得ず、そのうち、引越しが決まり、主人は仕事しかしませんでしたので、そのほかのこと全てやっていたつもりだったのに、自分の両親を連れてきて、食事に行くと騙して精神病院に連れていき、理由も言ってくれず、なんでかも言ってくれず、私は洗濯機のスイッチも押せなく、家事の仕方が分からなくなりました。父親のこと、母親のこと、主人のこと、主人の親のこと、大切な息子のこと。色々考えて、冷静には考えられず、パニック状態ではありましたが、母親に迎えに来てもらい、連れて帰ってもらいましたが、主人の話を信じたようです。 

私の知らないところでの話がもうこわくてしかたありませんでした。こちらに帰って心療内科を受診させられて、3年後に統合失調症と言われました。 

父親とは、息子が小学低学年くらいまでは連絡を取らされていました。統合失調症も今回は、症状が重く、倦怠感や怖く考えてしまうことに、悩まされましたし、陰性症状で、眠り続けてしまうのに、ごめんね、と息子に謝りながらの生活でした。具合が悪く、働ける状態でもなく、そんな時に、彼氏と部屋を借りて帰ってこなくなる母親。助けて欲しいとお願いしても、私を当てにしないで。母親なんだから、自分で頑張りなさいと言い放ち帰ってこない状態が続きました。主人は、私と息子に暴力があったので、田舎に帰った時に、離婚したので、頼る人もなく、生きさせるのに必死でした。病気は良くなったり悪くなったりを繰り返し、母親には強く頼み込んで帰ってきてもらいました。大声で怒鳴ったり、文句を言ったりしましたので、息子が中学生の時に、私も発狂しました。私も、母に怒鳴るようになり、現在に至ります。父親も許せず、それを何もしなかった母親も許せずの毎日ですが、経済的な理由から、母とはまだ離れていません。こんな生き方でも、まだ希望を持っている私です。




数年前、当時通っていた接骨院の先生につきまとわれていた。その人はその後、個室治療に変え、自分のストレス発散とばかりに暴力を振るうようになり、院内で性暴力まで受けた。 

 まだ若い先生だったので、将来のことを考えて事を大きくしないようにし、先生の性格のムラに注意して、他に迷惑かけないよう配慮して対応した。

 真剣に「結婚してほしい」と何度も言われ、年の差があって結婚のことを考えられなかったが、彼の熱意に負け、真剣に考えるようになった。 

 その後もイライラをぶつけてくることはあったが、その度に落ち着くよう対応してきた矢先、自分の都合で無理やり性交渉をしてきて妊娠。それを伝えると、接骨院にある高圧電気治療器を押し当ててくるという行動を取った。 

 この院の代表や先輩方が、妊娠させてしまったらこの機器を使えば流せると教えてくれたとのこと。 

 治療方法を勝手に変えて返金対応もせず、保険治療に出来ると騙し不正を行なっていることがわかり通うのをやめた。 

 しばらくして接骨院の代表に私との関係がばれて謝罪の場を設けられた。 

 謝罪とは名ばかりで、嘘の証言によって私は悪者にされ、ストーカーしていた容疑で逮捕された。 

 逮捕まではさまざまな嫌がらせを受けたり、彼がこそこそと私の自宅に来ていたりしたにも関わらず、警察は私を精神異常者と言って一方的に悪者にした。 

 10代の頃、警察関係者に襲われた記憶がよみがえり、警察が信じられなく、弁護士も早く認めて出て来なさいというだけ。検事は私を嘘つき呼ばわり。 

 どこにどう言ったらよいかわからず、今でも悔しい思いに苦しみながら、それでもなんとか人前では笑顔で生活している。 




書き込みを読み、同感だと思えるものがあり勇気付けられました。

私は分かっている限り3世代続いたDV家系の最後の人間です。その前の代の曽祖父は田舎町の警察署長だったと子供の時聞いています。DV家庭から逃げた若い母が夢見て作った家庭もまたDV家庭でした。

生まれた私は家庭や環境に恵まれなかったためか18歳未満で何度も性被害を受けており、本来ならここに書き込みをすることは少ないであろう性風俗で働く女性の中にいて、暴力的な男性につけ込まれ子どもを産み混乱し悩み苦しみながら諦めながら暮らしているか、早くに自殺していただろうと思います。

自尊心の低い私は自分を陰の人間のように思い、普通の恋愛や人間関係ができそうな社会で安心して暮らすことができず、長い間出会い系サイトに依存していました。ただそこにいた男性のすべてが悪人ではなく、日常をひと時だけ忘れ楽しい時間を過ごすために一緒に食事をしたりお茶しながら楽しく会話するだけで、プライバシーを詮索せず連絡先も交わさずまたお互い元の日常に戻っていくことが6割でした。その方々に下心が全くないかというと嘘になるかもでしょうが、犯罪者でない人は女性の同意がなければ簡単に諦めるのです。それに慣れていた私は、およそ3割程度と思われる、都合よく性の対象になるもしくは暴力的にコントロールできる女性を探しにきている男性もいることがうまく理解できてなくて、さらに被害に遭遇しました。

一人、暴力的な男性から2〜3年ほどコントロールを受け続け長く混乱させられていました。性的な関係は2〜3回でしたが、それより精神的にコントロールされていた気がします。

もう一人、これは私が出会い系を離れることになった最後のケースになりますが、出会い系で多少性的な話をしたのち喫茶店で会うだけですぐ帰るつもりだったはずが、気がついたら何故かその男が私の家にその日のうちに来て、当たり前のように性的な(挿入はなかったかもしれません。よく覚えていないのです)接触を2ヶ月近くに渡り繰り返したことでした。私は出会い系サイトで会う男性を家に呼んだことは一度もなく、まして何の関心も持たなかったお化けのような顔のその男をすぐさま家に呼ぶほど性的に飢えている人間なわけでもなく、今考えると全く有り得ない話なのです。その男はきっといつでも好きな時にセックスができる都合のいい近所の女を探していたのでしょう。初めて会った日に、うちに来る帰り道のスーパーでコンドームを3箱買い私の家に置いて帰っていました。2ヶ月目前に気がついて普通に断っても、しつこく何度も「誤解だ」「話がしたい」と書いたメールを送ってくるので、「警察を呼ぶ」と脅したあと完全無視をして関係を終わらせることができました。

その男は、現在その仕事はしていないけれど臨床心理士の資格を持っていると言っていました。弱っている、さみしい、自尊心が低い、信頼して相談できる人や家族がいない、もしくはいても相談できない、そんな女性に漬け込むためにサイトに出入りしている男が確実にいるのだとわかりました。出かける時間になりました。そのまま送ります。









中学生のとき、犬の散歩中に声をかけられ、尋ねられた場所に案内をしたところ、背後から口を押さえられてナイフで脅された。後頭部も殴られ、怖くてフリーズした。行為の最中はよく覚えていない。途中で人の気配があって加害者は「行っていいよ」と言って走り去ったけど、私も直ぐにその場から逃げた。助けは求めず、転んだことにして自宅に帰り、生理のように下着に血がついていたので更に怖くなって捨てた。その後、普通にしなきゃいけないと思って、何事もなかったかのように振る舞うことに精一杯だった。それでも毎日犬の散歩に行かなきゃならないことが苦痛で散歩コースを変えた。いつも通り振る舞っているうちに心に蓋をしたかのような気持ちになり、「無かったこと」にすることにした。それでもその後何度も性被害に遭い、女子の中にいると劣等感が出てきて男子と話す方が楽だったり、誘われると断れなくて好きでもない人と関係を持ったり、キャバクラで働いたり、自分でも何をやってるのかわからないような十代後半を過ごした。二十代からは信頼できる彼氏(現夫)ができたことで、携帯を変えて色んな関係を絶った。結婚して子どもに恵まれ、育児が落ち着いて仕事を再開してから、仕事の関係で性被害に遭った子どもたちと関わることがあり、気持ちに蓋をしてきたものが甦ってきた。たまにしか飲まないお酒を毎日飲むようになった。精神保健福祉関係だったので自分の症状がヤバイことはわかっていた。三十代後半になって初めて自分の性被害と向き合うことにした。ネットで情報を集めて勉強会や自助グループに参加したり、専門書も読み漁った。仲間が出来たことで一人で抱え込むことはなくなり、夫にも話して理解を得た。今も自助グループや研修等に参加して、仕事に活かされる時もある。




整体被験のアルバイトに行ったらレイプされておそらくアダルトビデオの領収書にサインさせられてお金を渡されて帰らされたこと




小学校高学年の時、知らない男性に車に連れ込まれました。親と喧嘩をして家を飛び出し、飛び出したはいいものの行く当てがなく、最寄りの駅の方にふらふらと歩いて行きました。19時か20時頃だったと思います。外は既に暗く、当時の自分にとっては遅い時間帯でした。

駅の付近に差し掛かると、車に乗った男性に声を掛けられました。どうしたの?送って行こうか?などと言われたと思います。その時は無視しました。車道と歩道の間には柵があり、人目も多かったので怖くはありませんでした。しばらく歩き、駅の反対側に出た少し暗くなったあたりで、再び車に乗った男性に声を掛けられました。

先ほどとは違う人です。仕事の帰り?送って行こうか?といった文言でした。当時の私は年齢にしては背が高い方でしたが大人と間違えられたことはさすがにありません。何を言っているんだと思いつつ無視しましたが、男性は車を降りてこちらに近付いてきました。今度は人通りが少なく、暗く、男と自分を隔てる柵などがない場所です。男性は私の腕を掴むと、大丈夫、怖くないよ、送っていくだけだから、安心して、公務員だから、ほら免許も見ていいよなどと言いながら私の目の前に免許を提示してきました。ぐいぐい引っ張られ怖かったけれど、はっきりと断ったり逃げ出したりすることができず、車に乗せられてしまいました。

そこからはひたすら相手の機嫌を損ねないよう努めました。住所を聞かれましたが家を知られることが怖かったので、家から離れた交差点の近くだと答えました。聞きたくないのに耳を塞ぎたくなるような卑猥な話をされました。そして、タダで送ってもらおうなんてムシが良すぎるなどと言われました。私は愛想笑いを浮かべ曖昧に返事をしました。男が私に性的なことを求めていることはぼんやりと理解できました。しかし当時の私はそんな男の様子に「ほっぺにキスをしたら許してくれるだろうか」と考えるほど幼かったのです。

車は指定した交差点へ行く道から離れ、人気のない、暗い、小さな川のそばで車を停められました。ドアを開けて叫ぼうとしましたが、背後から口を塞がれました。その後男は「何もしないから、こういうことはやめてくれ」と言って助手席のドアを閉め、今度こそ指定した交差点へ向かっていることが分かりました。交差点に着くまでに、男の声はだんだんと怒気を帯び、暴言をずっと聞かされることになりました。私はひたすら降りる許可が出ることを祈り待ちました。

交差点に着き、そこで降ろしてもらいました。私は深々と頭を下げてお礼を述べました。男は「気を付けて帰るんだよ」などと言い、手を降っていました。男の車が遠ざかるまでしばらく頭を下げたままでいました。ナンバーを見られたと激昂して戻ってくるのが怖かったのです。

男の車が遠ざかり、戻ってきたとしても逃げられると確信してから、家まで全速力で走りました。親には話せませんでした。話したら怒られるのは自分だと知っていたのです。部屋で一人になってから、恐怖と屈辱と後悔と誰にも言えない苦しさに、涙が出ました。

なぜ逃げなかったのか。なぜあんな言葉に愛想笑いで相槌を打ったりしたのか。なぜ助けを求めなかったのか、大声を出せばよかったのに。なぜお礼など言ったのだ、まるで良いことをしたかのようなあの男の態度。怖くても車のナンバーを確認しておくべきだったのに、なぜ、なぜ。

私が自分に向けたたくさんの「なぜ」は、もしもこの時のことが事件となり報道されていたとしたら、多くの人々に突き付けられていたであろう言葉と同じなのでしょう。本人が一番考え、後悔するのです。性犯罪が報道されるとその度に、繰り返し繰り返し「自己責任」という言葉がネット上に踊ります。胸が苦しくなります。

私は暴行や強制わいせつ等の被害は受けずに解放されましたが、一歩間違えば強姦されていたかも知れません。誘拐され監禁され何年も家に帰れなかったかも知れません。当時はそのことも分かりませんでした。大人になるにつれ、自分が何をされたのかをさらなる危険があった可能性を理解していきます。その度に傷付くのです。よく言われることですが、性犯罪はまるで時限爆弾のようです。

それなのにこと性犯罪となると途端に世間は自己責任を唱え、被害者の落ち度をあげつらい、被害に遭った人々の口を塞ぎます。被害に遭ったことだけでも辛いのに。

性犯罪被害の暗数を調査して欲しい。加害者に効果的な治療を施し、新たな被害者を生まないようにして欲しい。できることならアメリカのミーガン法のような法律が日本にもできて欲しい。被害者にも落ち度があると責められる風潮を変えたい。そういう思いがとても強いです。

私には娘がいます。息子もいます。被害者にも、加害者にもなって欲しくありません。私と同じような思いを絶対にさせたくありません。




上司から強姦未遂の被害を受けました。

その日は社員旅行で、社員全員で宿泊していました。

深夜、外出先から一人で戻った私は、自室で寝る仕度をしているところでした。そのとき、泥酔状態の上司が、私と同室だった女性とともに部屋に入ってきました。酒を抱え「一緒に飲もう」というのです。

それだけでも不快でしたが、追い返すこともできず、しばらく彼らの会話に付き合いました。そうするうちに彼は、その女性の腰を引き寄せ、キスをしたり服の上から身体を揉んだりという加害行為に及びはじめました。私は何が起きているのか分からず、既にパニック状態で慌てて彼らから目を逸らしました。すると何故か、彼の矛先が途中から私に変わったのです。彼はおもむろに私に近づき、抱き締めてキスをしてきました。何かの冗談かと受け流そうとしましたが、彼はベッドに私を押し倒すと、服を捲り上げ、胸に、性器に直接触れてきました。その行為はエスカレートするばかりで、途中で止めてくれるような気配はありません。もう抵抗できない、抵抗すればもっと危険な目に遭うかもしれない、と悟った私は、途中からはせめて感じているかのような素振りを見せぬよう、身を固くしているので精一杯だった気がします。

結局は、その場にいたもう一人の女性が危機を感じ、別室から男性を呼んできて助けを求めてくれたため、「最後」までは至ることなく彼は部屋から逃げていきました。

直後は、嫌悪や恐怖というよりも、ひとまず終わった、危機は去った、という妙な安堵と脱力感に襲われたのを覚えています。

次の日の集合時間に社員一同が顔を合わせたとき、そして旅行後にはじめて出社したときにも、私は彼に呼び出され、平謝りをされました。そしてこのことは誰にも漏らさないようにと懇願されました。

私自身、その夜のことはどこか夢の中のことのようで、ふわふわと現実味のない捉え方しか出来ていなかったように思います。これは明確な性暴力であり、犯罪だ、という意識はあったものの、最後まではされなかったという安堵もあり、はじめはこのまま誰にも言わないでいても自分は大丈夫だ、という思いでした。

事件の後、彼は私に対してあからさまに怯えたような卑屈な態度を取る様になり(告発、報復を恐れていたのでしょう)、そうして彼に脅威を与えている状況が痛快だった、という気持ちもあったと思います。

しかし、このまま何もしないでいたら、彼の中で、会社の中で、あの事件は「なかったこと」になってしまう。私はあの夜起きたことを決して忘れないけれど、きっと彼は次第に忘れ、このまま幸せな人生を歩むのだ。

当時、彼は新婚でした。

好きでもない私にあんなことをしておきながら、何も知らない女性と幸せな家庭を築こうとしている...。そのことが許せない、という思いに、私の心は次第に変わっていきました。「なかったこと」にはさせない、させてはならない。そして、させないことが私にはできる。そんな確信めいた思いが閃き、私は行動する覚悟を決めました。

私は会社に事件を告発しました。冷たい処罰意識の中で、私は会社の人間たちの前で、彼から受けた行為を事細かに打ち明けていきました。彼は退職に追い込まれることになりました。

事件が起きる前、彼は心から信頼できる上司のひとりでした。

新卒入社以来の直属の上司で、社会人としての振る舞いや物事の判断基準を教わっただけでなく、メンタル面もよく支えてくれ、私の立場や想いを理解してくれる人だと感じていました。そんな人から裏切りを受け、大切な上司を失ってしまった。それも自分の手で、彼を不正義と断じ、職場から排斥してしまった。私が望んだ結果だし、正しいことだったとは思いつつも、「取り返しのつかないことをしてしまった」という苦い衝撃は拭い去れませんでした。働く上で私がこれまで信じてきたものの基盤、自分が築いてきた正義ががらがらと崩れていくようでした。

その後すぐに私も転職し、事件の関係者と顔を合わせることのない新天地で働くことになりました。

これでもう私は危険から解放された、新しい環境は本当にすばらしいし、これで幸せになれる!彼にも適切な処罰を与えることができたし、私こそが正義だ!と、妙なハイテンションの中にいたことを覚えています。

(こうした感情の動きも、いわゆる解離や躁と呼ばれる状態だったのではないかと今は思います。)

しかし実際は、私の内面で被害は終わっていなかったようでした。

まず、自宅のベッドで眠ろうと横になると、しばしばその夜の感触が鮮明に蘇ってくることから、眠りにつくのが怖くなっていきました。

新しい職場(基本的には同僚同士の距離が近く、いわゆる仲の良い職場だと思います)では、人間関係の結び方が分からなくなりました。男性社員たちに対し、どのくらいの距離感で接するのが適切なのか、危険がないのか。私は徐々に混乱し、それはぎこちなくおどおどとした態度となって表れていたでしょう。だんだんと私は職場の中で「扱いにくいやつ」とみなされるようになり、孤立していきました。

また、職場の同僚たち、特に男性社員と女性社員が楽しげに会話をしているのを見ていると、やり場のない怒りや焦燥、イライラ感に襲われるようにもなりました。

「私はあんな目に遭ったというのに、あなた達は何故そんなにも楽しそうに仕事ができているの!?」そんな感情が爆発しないよう押さえつけるのに必死でした。

仲良さげにコミュニケーションを深める同僚たちを横目に、「あんな出来事を知っているのは私ひとりだ、こんな気持ちをわかってくれる人なんてどこにもいない」そんな孤独感で一杯でした。

眠るのも怖い、次の朝を迎えてまた男も女もいる職場に出かけていくことも怖い... 不安や恐怖を麻痺させるため、毎晩大量のお酒に手を出すようになりました。自分になんて価値がない、薄汚れた下らない存在なのだから、こんな身体はどうなっても構わない。自分で自分を粗末に扱ってやりたいような、自暴自棄な気持ちでした。

仕事中だけでなく、自分が楽しめるはずの場所にいるときすら気分が晴れない。周囲の人すべてから嫌われ、疎外されていると感じ、景色のすべてがどこか暗く澱んで見えはじめたとき、耐え切れず心療内科を受診しました。抗うつ薬を処方され、自分は普通の状態ではない、病気なのだと認めることができたとき、少し落ち着いた気持ちになることができました。

(現在も受診をつづけていますが、少しずつ減薬にトライしているところです。)

その後は、今自分はどういう状況にあるのか?これからどのように回復していけばよいのか?こんなことが他にも日本中、世界中で起きているのか?撲滅していくことはできないのか?自分に何かできることはないのか?そんな課題に猛烈に興味が湧き、性暴力に関連する様々なNPOのイベントや自助グループに顔を出したり、関連書籍を読み漁るようになりました。そんな中で、山本潤さんのことや、Springさんの活動も知ることができました。丁度#me too運動がマスコミで取り上げられるようになった時期で、フェミニズム関連の言説がメディアで目立つようになっていたこともありました。

性被害の生々しい実態を知ること、そして、私のような経験をした人は決して1人ではないこと、苦しみながらも人としての尊厳を忘れることなく生き、性暴力撲滅のために闘い続けている人がいることを知っていくことで、私自身も癒され、励まされていく気持ちでした。私はひとりではない、私の痛みにも寄り添ってくれる人はいる、そして、性暴力が蔓延している今の社会を少しずつでも変えていくためにできることがある、ということが、今の私にとって大きな支えとなっています。

報道を見ているだけでも、日々様々な性暴力やセクハラ、パワハラが横行している社会です。残念ながら、こうした風潮が払底し、性別に関係なく誰もが性的自立を確保し、幸福を追求できる社会が訪れるには、まだまだ長い時間が必要であると感じます。自分たちの世代だけでは不可能なのかな、とも思います。

しかし、だからといって現状を甘受せず、私たちの娘たち、孫たちの世代によりよい社会を残すため、行動をつづけなければならないのだと思います。私も、これからもずっと、社会を変えるためにできることを探しながら生きていきたいと思います。それは同時に、私自身の癒しと、社会・他人・人生に対する信頼の回復に繋がるものだと信じています。

可能であれば、今後もインタビューなどを通じ、私が持てる声を上げる機会を頂ければ嬉しいです。

大変な長文、失礼いたしました。本プロジェクト、心から支援いたします。



私は、小学校低学年の時に近所の同級生の男子に性的な遊びに誘われ、よくわからないまま断れきれず、ある期間関係を続けてしまいました。何が楽しいのか、何が気持ちがいいのか全くわかりませんでしたが、何か求められていることに断れない私がいました。

しばらくして、近所の中学生の男子にも誘われ、近づいてきては体を触られましたが、体格の大きさに怖くて逃げていました。ところがある日、同級生の男子と一緒に中学生の男子がやってきて、無理やり抑えつけられてしまいました。どこまで性行為をしたのか、どの期間、何回したのか途中から記憶はありません。

罪悪感や羞恥心、責められるのではと思い、親や他の誰にも話せませんでした。 成長するにつれて、性行為の意味や理解が変化し、何とか正当化するために勝手に自己解釈し、その結果、認知が歪んでいきました。

今は社会人として仕事に就けていますが、過覚醒と不安感、時折侵入してくる体の不快感は残っています 。なかなか認知の歪みを修正するのは難しいですが、少しずつ症状と向きあって、行動を変えていきたいと思っているところです。



調査のための体験を書こうとして気分が悪くなり寄り添いホットラインに電話をしました。今は自分自身を保つため体験は書くことができませんが、私は被害に会って3年近く自分の被害を「自分に落ち度があった」と考えていました。

もし、被害にあった日の帰り道に駅の改札や電車の中に「望まぬ性行為があった時は迷わず病院や警察に行ってください」と書いたポスターが貼ってあったとして、それを見たとしても長い間自分が悪かったと思い続けただろうかと考えました。被害を言葉に出来ず自暴自棄になり自分をコントロールできなくなった苦しさが、その一枚のポスターで回避できた可能性はないのだろうかとも考えます。過去の出来事には証拠が残っていない可能性が高いため、被害を過去にしてしまわないよう被害者のための啓発と、被害者以外の人にも望まぬ性行為は犯罪だという認識を持ってもらうための啓発や法律の整備などを望んでいます。性犯罪だけでなく多くの犯罪が暴力や脅しだけで行われているわけではないことをたくさんの人に知ってほしいし理解してほしいです。世の中が変わらないと被害者が報われないサイクルは変わらないと思いました。



私の母親がDV家庭で育ち、私は両親から虐待を受けて育ちました。 自分の意思や感情を尊重されない辛い生活でした。小学校には頑張って通っていましたが、町外れにある家への帰り道、友達と別れた後一人になると 毎月のように知らない大人の男性に跡をつけられて追いかけられて走って逃げて家まで帰っていました。記憶しているだけで4人くらい違う年代や服装を覚えています。その中で、一人だけ大学生風の若い男性に道を尋ねるふりで性器を触らせられました。その後中学生の時に、近所のアパートに住む男性とその友達のような人に言葉巧みにアパートに連れて行かれ二人から性行為をされました。面識はありませんでしたが、もしかしたらその男たちは私を見かけたことがあり知っていたかもしれません。家庭のことを人に話すなと脅されているような家庭で、このような被害にあったと話すことは考えられませんでした。学校の友達にも先生にも話しませんでした。私は記憶を抑圧することでこの経験をなかったものにできるような気がしていましたが、被害のあと家のトイレで一人でタバコの火を手の甲に4つ押し付けました。タバコは転校生の友人からもらったものか、父親のものか覚えていません。被害に会う直前まで私はお兄ちゃんのような友達ができたと思っていました。最初優しかったその男たちは突然豹変し、びっくりした私は声を出すことすらできず言いなりになりました。思いつくままに書いていて文章にまとまりがないことをお許しください。家の中で一人辛い思いを耐えていた私は体はほぼ大人に成長していても、精神は王子様のような、少女漫画のお兄ちゃんのような男性に憧れているような子供でした。性行為についてきちんと判断できるような知識もなく心の発達を遂げている状態でもありませんでした。今年閉経したこの年齢まで望まぬ性行為を何度も繰り返してきました。望む性行為をして子供を作る事ができませんでした。自分の体を商品のように思っていました。決定権が自分にある事がわかりませんでした。性行為が合意できるとされる年齢は最低でも18歳にしてほしいと思います。今の中高校生の中にも若い頃の私のような子供がたくさんいるような気がします。一部の男性にとって都合のいい法律ではなく、本当に必要とされる法律を作ってほしい。 




小学校低学年。近所の顔見知り(20才位)にバイクで追いかけられ、性器に指を入れられました。鼻と口を片手で覆われて気を失いました。公園で血の着いた足を洗って下着を埋めたことだけは覚えていますが、どうやって逃げたかなどの記憶はありません。なので、どの程度の被害なのか自分でも分からないのです。
当時私の母は心の病を患っており、、、、とても話せませんでした。そして、どういう訳か、次の日からすっかり忘れ、普通に過ごしました。ただ自家中毒をくり返し、学校は休みがちでした。そして時折、何の脈絡もなく、被害時に見ていた映像が頭の中で再生され、ひや汗をかく、ということも。今でこそPTSDとして知られる症状ですが、小学生の私には為す術なく。
中学で性の授業を受けた時、初めて「私、マズイんじゃないか...」
事の意味を知り、自分が既に処女ではないことを理解しました。
親にも誰にも相談できず、ひたすら女性として成長するのが恐ろしかった。そうしたら、見事に月経が止まってしまいました。

訳も分からずセックスに溺れた時期もありました。
愛とセックスを結び付けて捉えることが出来ず、夫には辛い思いをさせてしまいました。
PTSDが世に知られるようになり、私もようやく6年前に治療を受けました。
何年経っていても、凍結状態にあった記憶が心と体を蝕んでおり、なかなか心晴れて過ごせる日が来ません。
家族も両親も「いい加減に被害者面はやめろ」と無理解。
何かをしないと終わらない、そんな思いを分かってくれる人が囲りにいません。
どうか私が力になれるのなら。そう思っております。




私が高校生の時でした。普段通りの帰り道、私は知らない男性に拉致されました。
車に押し込められて、気が付いたら東京のビル群から風景が変わり、暗い森のような場所にいました。
その時は、殺されてしまうのではないかという恐怖が強く、抵抗はしませんでした。抵抗すれば殺されてしまうのではないか、そう思いました。
大人しくしていたからでしょうか。性交以外の暴力を受けたりはしませんでした。しかし、私の初体験はあっけなく、暴力によって奪われました。
家にどうやって帰ったのか、覚えていません。
ただ、車から降りる時、高校名と友達の名前を言われたことだけは覚えています。
その後、私は友人が同じ目にあうのではないと思い、口を閉ざしてしまいました。この時声を上げることが出来ていたなら、何か変わっていたのでしょうか。
当時、アフターピルの存在は知っていましたが、お金がなく、精神疾患を持つ親には自分に何があったのか言えませんでした。このときに頼れる大人がいたら、相談すべき機関を知っていたらと今も後悔しています。
その後、妊娠していると分かり、中絶費用を稼ぐ為に売春を始めました。
このときから、自分を大切に出来ません。
あの時の孤独感、恐怖感、絶望感は一生忘れることはないでしょう。
あの日から、私の人生が大きく変わりました。
受験生になっても、苦しくて、泣くばかりで勉強は手につきませんでした。
元々勉強が好きでしたので、それまでの蓄積で、何とか受かった大学で、今はソーシャルワーカーになるための勉強をしています。


突然のフラッシュバック、悪夢、発作に怯えながらも、友人の理解と協力を得て、何とか生活を送っています。

どんなに辛くても、生きていられるのは、私が殺してしまった我が子の存在が大きいです。あの子の分も私は生きなければなりません。

病院へは、最近になって通い始めることが出来ました。成人して、親の比護を受けずにいれるようになり、自分と向き合うことを決心したのが大きなきっかけです。
しかし事件から時間が経過しているので、支援を受けることも、被害を訴えることも出来ません。相手が誰かも分からないからです。特定するには時間が経ちすぎてしまっています。証拠になる衣類も全て捨ててしまいました。

今でも自分を大切に出来ません。私は皆とは違う、大切にされるべき存在でないと思い込んでいるからです。売春やセックスをやめることが出来ません。
私は男性の性欲求を埋めるために生きているのだと、カウンセリングを受けるまで本気で思い込んでいました。
友人にはあなたは幸せになるべきだと言われますが、私には幸せはとても遠い存在です。幸せなはずでもそれを感じることが出来ません。喜怒哀楽が薄くなっているようです。フラッシュバックを起こした後に出てくる涙も、悲しいとか悔しいよりも、よく分からないけれど出てくる感じです。だから生きてこれたのかなと思います。

4年近く経つ今でも、あの時のことを思い出さない日はありません。
苦しいけれど、そんな自分にも向き合って生きていかなければなりません。

これからは、私のような孤独な被害者を生まないために、私が出来ることをしていきたいと考えています。




兄からの性的虐待(性行なし)になります。
小学校高学年から就寝時に直接肌に触れ様々な場所をまさぐられ写真を撮られる、交わる寸前までの行為そして脱衣所・トイレ・お風呂といった服を脱ぐ場所に携帯を録画開始状態で置き映像に残そうとするといった事をうけていました。
性的虐待が行われてから約9年間何度か話し合いを行いその都度「もう辞める」との言葉は出ましたが守られることはありませんでした。
最近になり、上記に記載した出来事と徐々に向き合いその上で感じた想いを言葉や文字に書き起こす事により徐々に受け止められる様になったと感じています。
辛いながらもなんとか前を向き歩む事ができた事により、ここに辿り着いた為こんな私の経験でも何かのお役に立てるのであれば是非インタビューを受けたいと考えています。




私は母子家庭で育ちましたが、小学校高学年の頃から中学の終わり頃に母親が別れるまで、母親の彼氏から性器を弄られたり下着のなかに手を入れたり性器を触らせられたりしていました。性交までは至りませんでしたが、もし母親がその人と別れず、あと数年関係が続いていたら恐らくそこまで行き着いていただろうなと思います。


 母親の彼氏は交際当初、週末に家へよく来ていましたが、弟は野球の習い事、母は営業職で家を空ける時間も長く、その人と私が二人きりで留守番していることも多かったことが性的被害が発生した背景にあるだろうなと思います。また、母は虐待とまではいきませんが弟と私への態度の差は明らかで、私に対して冷たかったものの、その彼氏がいるときは普段よりも機嫌がよく、その彼氏は優しかったため私が懐いてしまっていたのも原因のひとつであろうという気がします。 

性的悪戯はいつも私と母親の彼氏が二人で留守番しているときに行われていました。初めてそのような行為をされたときは、その人を信頼していたため嫌悪感はあったものの、何かの間違いに違いないと現実を受け入れられなかったことを覚えています。はじめほんの一瞬手が触れたか触れないかだったものは次第にエスカレートしていきましたが、本当に徐々に徐々にエスカレートしていったため、やがて段々と慣れていってしまったような気がします。あんなにあったはずの嫌悪感がどこで薄れてしまったのかは思い出すことが出来ないので分かりません。母親との関係は悪く、誰かに助けを求めることも非常に苦手な子どもだったので、心を守るためにそのような心理反応が起きていた側面もあるのかもしれないと今では思うものの、過去を思い出したときに拒みきれなかった自分を非常に気持ち悪く思ってしまう自分がいます。 

母からは直接何かを言われた訳ではありませんが、本当は薄々そのようなことが起きていたことを勘づいていたのではないかと思います。私が望んでそのような関係に至った訳ではありませんが、母親の彼氏とそのような関係に陥ってしまってから母親との関係は更に拗れていった気がします。その男性と母が別れてからもう5年以上経ちますが、今でも母との関係はとても悪いです。また、そういった経験だけではなくマルトリートメントを受けて育ったことも影響しているとは思いますが、私は汚らわしい存在であるといった思いや邪魔な存在であるといった思いが半ば確信的に存在していて何となく生きづらさを感じており、また、自分が大切に思えないため、求められれば流されるままに大して好きでもない相手と(避妊はしますが)身体を重ねてしまい自己嫌悪に陥ってしまいます。




新卒で入社した会社の先輩から被害に遭いました。
当時は会社の社宅(平屋の一軒家)に一人暮らしをしていて、田舎で周りには職場関係の人しか住んでおらず、部屋に鍵もかけない女性の先輩もいるぐらいだったので、安心しきっていました。
入社して初めての夏で、その日は飲み会があって、その先輩(加害者)も一緒に飲んでいました。
お開きになってみんなでぞろぞろと「星がきれいだねー」なんていいながら帰ったのを覚えいます。
社宅に着いて、次の日に仕事があったのですぐに寝たように思います。ほとんど記憶がないのですが、暑かったので窓を開けたままにして寝てしまったのかもしれません。気がついた時には覆いかぶされていて、他に覚えているのは入れられた感覚とドアを開けて出て行く音だけです。
自分に何が起こったのか全くわからなくて、しばらく呆然としていました。
でも、仕事には行かなくちゃと思って、何事もなかったようにいきました。
被害後の数週間は現実味がなくて、毎日目の前がフワフワとしていました。自分が悪かったという思いが強かったので誰にも言えませんでした。
その後も誰にも話せないまま仕事をしていたのですが、一年ほど後に肝臓を悪くしてしまって1ヶ月ほど入院しました。職場には復帰できたのですが、その時にその先輩(加害者)に笑顔で「大変だったねー」と言われて、もうここにはいられないと思い、病気を理由に仕事を辞めてしまいました。
被害から10数年経ちますが、やっと心も身体も解放されてきたように感じています。
その後結婚しましたが、子どもを授かることができず、不妊治療を1年ほどしました。被害に遭わなければもっと早く結婚したかもしれない、そうしたら不妊治療も必要なかったかもしれないと思うと悲しい気分になります。何かあると被害に関連づけてしまうところがあり、それが嫌なのですが、いまはあの経験があったから出会えた人がいて、気づけたこと、学べたことが沢山あると思えるようになりました。これからは、自分なりの形でこの問題と向き合い続けて、被害者が一日でも早くその人自身の人生に戻れるお手伝いができたらと思っています。 




もう数10年以上前のことですが。
20代の頃、広告営業をしていました。当時私は社外の方との勉強会に参加したり、クライアントさんと飲みに行って他のクライアントさんを紹介していただいたり、積極的に社外の方と飲みに行く機会を作っていました。自社の社員の内向きな姿勢への反発でもありました。
営業をかけていたある美容外科の院長とも、誘われて飲みに行きました。その時誰か他の人もいたような気もしますが、とにかく帰りにタクシーで家まで送ってもらいました。が、私と一緒に車を降り、(昔すぎて記憶が定かではありませんが)一人暮らしの私のアパートに入って来ました。
どのような経緯でそうなったのか記憶が曖昧なのですが、気がついたら性交されていました。私自身はなかったことにしたくて、その後も以前と変わらずに接していましたが、しばらくしてまた飲みに行くことになりました。誘いを断り続けて断りきれなくなってのことだったと記憶しています。相手は、最初から恋人気取りでした。こちらが迷惑に思っていることなどまるで気がついていないようでした。そして、一番傷ついたのがその時のことです。今でもフラッシュバックするほど、辱められた記憶...。あるバーでカウンターで並んで飲みながら、マスターと話していた時、その相手は自慢気に私とのベッドでの話をしたのです。私は忘れたいと思っていた出来事であり、自分のガードの甘さを恥じ入り、自社の人たちに対しても罪悪感を感じ、決して誰にも言うまいと思っていた出来事だったのに、突然知らない人の前で暴露され、驚きとショックと恥ずかしさで消えてしまいたいほどでした。幸い困った顔をしていた私をみてマスターが上手にかわして話をそらしてくれたのですが、その数分が未だに忘れられない出来事です。




私は、一人で住んでいた職場の2階に人が侵入しているなどとは全く想像もせず、夜遅くに真っ暗な台所の電気を付けようと歩きました。すると急に横から手が出てきて口をふさがれ、床に倒されました。暗くてよく見えませんが、私の上に知らない人が乗っていました。必死で抵抗しましたが、口をふさがれているので、声も出せず、息も苦しく、そのうちにスカートの中に手が入ってきました。私はレイプされるかもしれない、その後殺されるかもしれないと思いました。それでも諦めずに抵抗し続けていると、その人はなぜか急に手を離し、立ち上がり、逃げていきました。今も捕まりませんので、何の目的だったのかも何もわかりません。 

  その翌年度から新しい職場に移動になり、場所が違うので安心かと思っていたら、不安がいっぱいになり、昼間でも一人で職場にいられなくなってしまいました。職場の配慮で、学校の敷地内で周りに知人のたくさんいるアパートに一人で住むことになりましたが、暗くなると不安でいられず、学生寮に特別入れて頂いての生活になりました。 

  毎日、不安を感じ、些細な物音にも反応し、どこかから急に悪い人が出てくるかもしれないといつも周りを気にして過ごしていました。誰もいないとわかっていても、部屋のクローゼットを何度も何度も確認したり、いろいろなことを心配して毎日過ごしていたので、疲れてしまい、集中力もなく、不安定な状態でした。私にとって安心できるはずの自宅と大切な職場が不安でいられない場所になってしまいました。 

  私はこのままではどうなってしまうのだろうかとの不安と、人と関わる仕事なのに自分が不安定では続けていけないので何とかしなくてはとの焦りがありました。ホームページで知った都民センターに思い切って電話で相談しました。そしてPE療法を受けることができました。今思うと簡単なことも事件以来できなくなっていました。例えば電気を消して眠るとか、夜11時に時計を見るとかありとあらゆる事件に関係することが不安でできませんでした。取り組むのは辛い時もありましたが、できなかったことが少しずつできるように回復していきました。 一番難しい課題は自宅アパートに一人で住むことでした。かなりの時間がかかり、一度泊まることができても、また不安で学生寮に戻る日々が続きましたが、取り組み続け、後には安心して一人で住むことができるようになりました。 

  その後も新たな課題が出てくることもありました。男性に対しての嫌悪感や不安があり、電車などで近くに知らない男性がいることに対して気分が悪くなったり、知人であっても不安や不快に思うこともありました。それらのことにもPE療法で教えて頂いたように一つひとつ取り組み、克服することができました。 事件に遭ったことで、私の生活は大きく変わってしまい、失ったものもたくさんです。また、周りの人々に理解してもらえなかったり、何で私はこんな大変な思いをしなければならないのだろうとの思いや、ひと言では言い表せない様々な辛いことがありました。

  けれど、私はたくさんの方々の助けを頂いて、ここまで回復することができ、感謝です。今も調子が悪くて不安になり過ぎたり、弱さを覚え、悩む時もありますが、あの出来事とその時に生かされたこと、その後の経験には何かの意味があると思っています。私にはこれから何ができるだろうか、何かの、誰かの役に立つことが少しでもできたらとの思いでいます。 




 10代後半の2月下旬のこと。 

 バイト帰りに男性3人に追いかけられた為、公衆電話から110番した。 すぐ行くのでそこを離れないでくださいと言われたので、指示通り見つからないように物陰に隠れていた。 その後の記憶は部分的にだけしか覚えていない。ただ、気がついた時には朝だった。散歩中のご老人に助けていただいた時には、服はめちゃくちゃだった。 

 警察は来なかった。 

 その後、ご老人と一緒に病院へ行き、警察にも行ったが、警察は聴いていないと言い張った。私は警察官が笑って答えていたように見えた。 

 その後、ご老人がいろいろ調べてくださり、私を襲った男の中に警察官の息子がいたことや、今現在、私を襲った男の中の誰かが警察官になっているということがわかった。 ご老人が調べたことで私は詳細はわからない。

 ご老人がなくなる際、あの時のことは忘れて幸せになるという約束をした為、忘れようと笑顔でいる生活を心掛けている。 

 当時、母は入院しており、2人暮らしだった為、誰にも言わず、ひとりで抱えてきた。 男性とお付き合いしても恐怖は瞬間的に出る。 

 なんの関係もなかったご老人が悔しい悔しいと言いながら亡くなっていったが、本当に親身になってくださったおかげで、心配かけたくないという思いと負けたくないという意地でここまで生きてきたと思う。

 1回も謝罪することない警察に対し不信感しかない。




  10代前半の時の性暴力被害の後、最後の被害は40代です。その間20代でデートレイプに合いその男性と結婚し、夫婦間性暴力を結婚後3年間毎日受け続けました。断っても聞き入れてもらえませんでした。夫のいうことは絶対の家庭でした。逃げて帰れる実家がありませんでした。私は長い間危機管理能力がありませんでした。手当たり次第酒場や出会い系サイトなどで男性に自分から近づいて行くところがありました。まるで男性を試すような感じでした。また、男性から執拗に、もしくは強く言われると判断能力が低下し言いなりになってしまうところがありました。そのことには今年気がつきました。離婚後うつ病や統合失調症と診断されていましたが、昨年転院した病院でトラウマによるうつ状態と診断されました。20代後半の時、10代の時のレイプ被害時のフラッシュバックが起こってから体調が悪くなりました。40代になるまで医師にも性被害のことを話すことができませんでした。10代からその時まで自殺願望がありました。私は愛情から発生する性行為の経験が一回しかありません。好きになった男性に自分を好きになってもらえる自信が全く無く好きでもない人と付き合ったり結婚しました。この年齢では男性と付き合った回数は少ないと思います。過去は、男性が好きだけど男性がどこか怖いという感覚でしたが、今は恋人や伴侶を作り男性を心から信頼し愛することができる自信がありません。この年齢まで好意を持った男性を愛したり愛されたりすることができず寂しい人生を送ってきたことと性暴力被害は無関係ではないと思います。私のような寂しい人生を送る人がいなくなるためのご協力をする以外には本当に何の役にも立たない経験です。40代後半の時DV被害者の自助グループや勉強会に出会ってから少しづつ人前で話ができるようになってきました。




幼少期から十代後半まで実父や大人からの性的虐待を受け、大学生になってから不眠などの症状が出て今もフラッシュバックや解離、不眠、記念日記憶などの症状に苦しんでいます。

大人になってから訪問看護を利用し、看護師から性的暴力を受けました。支援者である国家資格を持つ看護師からの性的暴力を受けたことはショックでなりません。

症状には波があり、休養入院が必要な時もありました。性被害により私の身体だけではなく心も深く傷つけられその後の生活、人生をとても生き辛いものにしました。被害に遭った自分に落ち度があったのではないか、自分が襲われたことは自分に理由があったのではないかと自分は汚れてしまったと、自分を責め続ける日々が続いています。

性的暴力により働くことができなくなり経済的にも生活困難を抱えています。性的虐待、性的暴力を受け症状が出たのは私の場合は直後ではありませんでした。制度や刑法が改正されることを願っています。




20代後半の時に健康診断を受けに初めて行った内科の開業医(推定70代男性)から診察中に「いい体しているねえ」と言われました。聴診器で胸を診察した時でした。その地域に引っ越してきて間も無かった頃です。私は社会人になって単位をとるために高校に入学しました。その時必要だった健康診断です。多分当時の私の状況がその医師にそのような発言を安易にさせたように今は思います。私は昔でいう職人の最後の世代です。高校に行っていなかったのはそういった背景もありました。

警察官、教師、医師、弁護士、医療福祉関係者、支援者、公務員、地域の相談役、政治家、聖職者、ジャーナリスト・・・、そして女性。

どこにでも加害者は存在していて、肩書きのない人よりもその罪は何倍も重いということを突きつけ続ける人間でいたい。

私自身も、多くの人も職業倫理を考えながら働く対価に肩書きとお金がある。職業・立場を隠れ蓑にする事はもはやできない。私は知っている。

社会的弱者や貧困層と言われる状況にいる人が、ごく当たり前の日常でこのような性被害に遭遇し、人を信じられなくなり絶望する現実があることを当たり前のように口にしていきたい。力のある立場の人間が性的な屈辱を当然のように人に与え相手の自尊心を打ち砕き、性を含めた暴力被害、不快な態度にNOが言えない、安易に性産業に転落する、性を含めた男性側の暴力を容認するような人間を大量に作る社会に一石を投じたい。

数年前東京に来日したウルグアイのムヒカ前大統領に質問した若い日本人男性の言葉が日本の男性を象徴していました。「大統領、好きな女性を手に入れるために男は戦わなければならなくないですか?」「それは女性が決めることで戦う必要ありますか?」





「複雑性PTSD」による合併症の恐ろしさについて

私たちの生まれた時代には、まだ「虐待」や「家庭内暴力」、「学校でのいじめ」、「教師による体罰」などへの国民的意識や法の整備も全くという程なく、児童相談所や警察の介入どころか、世間の人々の中では「暴力」という概念ではなく全てが「躾」という認識と感覚の中で生活をしていた時代でした。

学校教育の場でも、当然のように今でいう「体罰」は普通に行われており、「学校内でのいじめ」という認識がないので、現代社会には存在しない「特別学級」というクラスもありました。勿論、周囲からは差別と偏見の目で見られていました。障碍者などという感覚ではなく「頭のおかしい子」という意味です。

家庭内では、「躾」と称して、長時間押し入れや物置などに閉じ込められる事や叱られて外に出される、両親から殴られる等の行為は、常識範囲内とされていて、誰もが「他所の家庭の問題」とし、どんな状況にあろうとも、口出しをする人や通報をする等ということは一切ありませんでした。

私の病名「複雑性PTSD」という言葉や病気が国の病気として認定されたのも、つい最近の事で私が「複雑性PTSDによる合併症」と診断されたのも、まだ今年の事でした。

私はもう20年以上もの長い年月の間、複数の「精神科医およびメンタルクリニック」に通ってきましたが、どこの病院に行っても医師の病気への認識の低さと診察への向き合い方などに憤りを感じるほどのレベルの低さやいい加減な対応ばかりで、初めて診察に訪れた病院では「重度のうつ病であり、生涯完治しない」と宣告をされました。この病院は後に「障害年金受給の診断書」を貰う時に、主治医から「カルテの中身がない」ので病状が判らないと回答がきた程でした。この主治医は診察では一切、患者の話を聞かず「はい、もういいから薬だすね、後はカウンセラーとはなして」と言いました。

その後、生活の環境などが変わり他県も含む複数の病院で診察を受けていましたが、全ての主治医は初診での病名である「うつ病」と判断される事が多く、「不安障害」や「適応障害」、「脅迫障害」などと言われ

殆どの医師が診察の中での聞き取りなどを丁寧にはしてくれず、ほぼ「薬漬け」状態にされ、どんどん投薬の量が増え強い薬に変わり、自分自身の脳の働きすらも異常な状態へと追い込まれ、日常生活もままならぬ酷い状態のまま「自分の気力だけで」50年近くの長い年月を過ごしてきました。


「死にたい」と思うことは数え切れないほどあり、「自分の存在」事態を受け入れられず「死にきれない自分」に苦しみながらも、相談にのってもらえる人も機関もなく、自力で「気力」のみで50年もの長い年月を必死で死にもの狂いで生きてきました。


私がこの病気になった原因は数々あり、「母子二代に渡る虐待被害と宗教的支配と洗脳」「教師と生徒からのいじめ」、「虐待により母を殺された事」、「姉(従妹)と子供を交通事故で亡くした事」、「夫によるDVと義両親からの過酷ないじめ」、「再婚相手が反社会性人格障害」、「発達障碍児の子育てと子供からの逆DVと支配」、「精神科医と行政関係者などからの二次、三次被害」など、一言では書ききれない事がたくさんあります。


私の生まれた家庭は、自分でも理解できないほど、複雑な環境で経験のない一般的な人々に話しても理解できる訳がありません。

ですので、今まで誰にも話せず自分の中で押し込めて健常者のふりを装って生きてきました。

一般的な言葉で言えば「とても数奇な人生」とでもいうのでしょうか。


私の人生の全てを狂わせ、全ての物を奪ったのは「鬼畜」と言っても過言ではないほど酷い人格の「母の姉」(以下おばと記する)の存在でした。


おばは、幼少期から病弱だった母を支配し自分の言いなりになるよう暴力や洗脳や脅迫などで抑えつけ意のままに支配してきました。

母は若い頃から「おばの生活と借金」を背負わされ、奴隷のように支配されて生きてきました。

また、おばには娘が一人いましたが、娘もまた自分の人生を犠牲にし「おばの人生を背負わされ私の命を守り続け」若くして交通事故で幼い息子とともに命を失ってしまった。


私が物心がついた頃には、もう両親も姉もいなく、おばと二人だけの生活でした。

毎朝、薄暗い部屋の中で目が覚めると独りぼっちで不安で寂しくて、近所の知り合いのお店のおばさんに「おばさんは何処?」と聞いて歩き回っている姿が今でも記憶に深く残っています。

母は入院しており殆ど面会もしたことがなく、一度か二度ほどの記憶では、「この人がお母さんなの?」と思っている自分がいます。

父は、私が生まれて直ぐに家を出て行ったらしいです。

大人になってから父に聞かされた話では、「おばが毎晩のように両親の寝ている布団に入って来て父に性的な虐待」を繰り返したのだそうです。

伯母は新興宗教にのめり込んでいて、宗教のイベントでカメラマンをしていた父と出会い、自分の気持ちを叶える事ができなかったため、両親を言いくるめて強引に結婚させ、自分の生活と借金の面倒をみさせるために同居を強要したそうです。

父は既に一度、離婚をし子供を抱えており、また母は30代後半になっていた事を理由に、おばが両親に二人の弱みに付け込み言いくるめたらしいです。

しかし、毎晩のように両親が一つの布団で寝ている中に、おばが父を目当てに入り込んでくるので、父は外に女性を作り家を出て行ったのだそうです。

父が家を出て直ぐ、母は何らかの原因で(おそらくおばの暴力)怪我をしたのか?輸血をし、それ以来「肝臓病」を患い長年に渡る闘病生活になってしまったそうです。伯母は、私に居るはずもない「弟が生まれたときに輸血をし、生後7日で亡くなったがお金がないので助産院に頼んで死産にしてもらった」という嘘を言っていました。これも、大人になってから父に確認し、「弟の存在はない」という事が判りました。

姉は、私より10以上も年上だったので、既に中学を卒業し「おばの生活と借金」を背負うために出稼ぎに出されていました。


-----------ここから本題----------------

5才頃までの私は、おばと二人だけの生活で食事も与えられず、家の中はごみ屋敷で、お風呂や着替えなども まともにさせて貰えてなかったです。

毎日が「独りぼっち」だいう不安感と「極度の飢え」に耐えられず、おばの居ない間を見て冷蔵庫や炊飯器の中から「腐っていない物」を探し飢えをしのいでいました。

5才になったころ、市役所の人だという男性が家に来て「保育園に入れなさい」と言っているのを聞いた覚えがあります。

そして私は初めて、保育園という「外の世界」を知る事になり、「給食とおやつ」という物が存在することを知ったのでした。

保育園では、いつも「いじめ」られていて友達も出来なかったし、自分から誰かに話しかけることも出来なかったです。

唯一の救いは、「いじめっこから守ってくれた男の子」が一人いた事と、教生の先生が優しくしてくれたことでした。

他の園児達がくる前の朝早い時間から夜の8~10時頃まで私は保育園に預けられていたのです。

園の時間が終わった後は、住み込みの給食のおばさんの部屋に預けられ、毎日のように「不機嫌な給食のおばさん」にいじめられていました。

伯母は仕事もしていなかったので、毎日どこに出かけていたのかは今でも判りません。

とにかく小さい頃から、おばの言う通りにしていないと「棒やその辺の物で殴られ」、「体中を動けないように縛られ」道路に長時間投げ出されていました。

大雪の積もる夜に長時間、肌に近い恰好で道路に放置された事もありました。

たまたま通りかかった近所のおばさんに発見され助けられたり、年に一度ほど家に帰ってきた姉に偶然発見され助けられたこともありました。

伯母は、自分の機嫌が悪いと何かと因縁をつけるように私を殴り、着物の腰ひもで全身を縛り、散々殴った挙句に道路に長時間放置する事や、裁縫用の裁ちばさみで指を切られたり、高温のアイロンを腕に押し付けられたりしました。

泣いたり叫んだり、言葉を発すると余計にひどい事をされるので、いつの間にか私は、泣くことも怒ることも考えることも出来なくなり、自分の記憶や感情の全てが何処かにいってしまい、「苦しい」や「悲しい」、「嫌だ」などと思うこともありませんでした。

これが、「普通なんだ」という感覚でしかなく、他の人や家との違いを羨んだりする気持ちも全くありませんでした。

私の中では、全て「外の世界」の出来事は「自分とは違う世界」だと思っていました。


小学校に入学する頃になって、おばから「お母さんが学校に入る前に一緒に暮らしたいと言うので、退院する」と聞かされました。

確かに母は、私が10歳までは、同じ家の二階の部屋で寝ていましたが、母は「おばに監禁」されていて私は「二階には絶対に入るな」と言われていたので、おばの機嫌や宗教の都合で数回しか母と会った事はありません。

ですので、母との記憶や思い出も曖昧でしかなく、「残されたたった1枚の写真」でしか顔も判りません。


いつも、おばを通して「お母さんが50円をくれた」とか、「習い事に行けと言っている」と聞かされたりしていました。

唯一少しの記憶にあるのは、遠足に母が一緒に来てくれた時に買ってもらったという子供用のアクセサリーが中学になる頃まで二階の部屋にあった事や、3年生くらいの頃に宗教関係者の子供に学校で「オルガンを持っていないから遊んであげない」と言われたらしく、伯母に「お母さんが怒ってオルガンより良い物を買ってやると言っている」と言われ、エレクトーンが家に届き、一度だけ母と教室の先生に会い、先生と母が「必ずこの子を私がプロに育てます」と約束している記憶が残っています。

私は小さいながら「絶対にプロになるんだ」と固く心に決め教室に通っていましたが、不運な事に信頼していた先生が「突然、姿を消し」教室に通うこともプロになることも諦めました。

今でも、本当なら「音楽のプロ」の世界で生きていきたかったと強く思っています。それほど音楽は好きでしたし、母のたった一つの望みだったからです。


私も母も同じ家の中で、隔離された生活をしていたのでお互いに「何がおきているのか」判らない状況でした。

母が亡くなる前日に、おばが「お母さんはもう二階から降りてトイレにも行けないというので下の部屋で寝る」と聞かされ、ビーチ用のビニールベッドの様なもので一階の奥の部屋で寝ていた記憶があります。

けれど、次の朝 私が一人で起きて学校に行こうとし母の横を通ると、そのベッドの様な物からは「母の首から上」が落ちていて、訳も分からず私は二階に駆け上がり「お母さんの頭が落ちているから助けて」と叫び、学校へと急いで向かいました。

すると、10時を過ぎた頃に校庭に居た私に宗教関係者のおばさんが慌てて自転車で走ってきて「お母さんが死んだから直ぐに帰るよ」と言われ、何が起きたのか解からないまま自転車の後ろに乗せられて家に帰りました。

家に着くと、近所の人が大勢 家の前に居て大騒ぎになっていて、パトカーが二台も止まっていました。

家に入ると、宗教の関係者が大勢いて葬儀の準備がされていて、「お母さんは不審死だから警察が調べている」「病気との因果関係がなく死亡診断書が出ない」と聞かされました。

そして、伯母に「お母さんの体をふきなさい」と言われ着いていくと、一階の奥で寝ていたはずの母が二階の部屋に移動されていて「背中中に大きな赤と青の痣が無数にあった」事を今でも忘れられません。

伯母は即座に「病気の人は、悪い部分が赤くなる」と言い、私は理解も出来ず立ちすくんでいました。

すると、伯母は「お母さんは病院に殺された、肝臓病なのに心臓病の薬を与えられた」と言うのです。

私は、子供ながらに「そんな事があるはずがない」と心の中で思いました。

この時は、何がなんだか解からず頭の中が真っ白になり、母の死を受け入れられず「涙」も出せず、硬直して動けませんでした。

ただ、おばに言われるまま「母の体をふき」一階の祭壇の場所まで「姉とおばと三人」で二階から降ろした時に覚えているのは「母の体がすごく軽かった」事です。

大人になった今思いだせば、伯母は母に「食事も薬」も与えておらず、病院に連れていく姿なども見たこともなかったのです。

いつも二階の部屋から聞こえくるのは「伯母のお経の声」と、伯母が「仏壇におがめば病気は治る」と言っていた事です。

私も自分へのおばの暴力を思い起こすと、いつも「見えない場所」しか殴られた事がなく、学校でも外でも「痣」などを発見された事はありませんでした。

母が亡くなった時にあった「大きな無数の赤と青の痣」は、「死斑」ではなく明らかに「殴られた跡」でした。

私と同じように「背中」だけに集中して暴力を受けていたに違いないのです。

母が亡くなる前に一度だけ、おばの怒鳴り声を聞いて二階から慌てて降りてきて「姉さま、もう辞めて」と泣きながら私を抱きかかえ助けてくれた事がありました。

おそらく母は、自分が黙って「おばの言う通りになること」で、私を守ってくれていたのではないか、今はそう思います。

だから、二階の部屋からは「母の声」は一切聞こえず、しーんと静まりかえっていたのだと思います。

子供の頃だったのでわからなかったけど、大人になった今は「どうして母を助けられなかったのか」という罪悪感で押しつぶされそうになります。

そして、自分自身の生きている事への辛さが極限になった時いつも思うのは「どうして、あの時お母さんの手を取って一緒に行かなかったのか?お母さんもう一度迎えにきて」と心の中で叫んでしまいます。

母が亡くなった時、私の夢の中に母が来て真っ暗な川の向こう側から「おいで」と言って手を差し出したのです。

どうしてなのか?自分でもわからないけど、その時の私は夢の中で「お母さん私いけない」と断ってしまったのです。それが、今でもフラッシュバックして凄く苦しくなります。


そして母の死がきっかけになり、一年に一度あるかないかしか会えなかった姉が家に戻ってきました。

姉はそれはそれは優しく、母の代わりになって私に精一杯のことをしてくれました。

勉強を教えてくれたりお小遣いをくれたり、テレビを見せてくれたり、洋服や学校の用品や給食費、授業料などを出してくれたりしました。

勉強も活字も嫌いだった私に、「漫画で良いから読みなさい」といって当時、流行っていた「なかよし」や「フレンド」などを毎月買ってくれました。姉に買ってもらったラジオで「レイジー」と出会い、「オールナイトニッポン」でレイジーを聞くことが私の唯一の支えになり勉強ができるようになりました。

泣く泣く諦めた音楽を続けさてあげたいと、当時の値段で「45000円もするフルート」までも買ってくれて中学ではブラスバンド部に入れてくれました。

姉がいつも言っていたのは「この子には普通の子と同じようにしてやりたい」という言葉でした。私が子育てが一生延命に出来たのは、この姉の言葉と背中を見て育ったからだと思います。

当時の私はまだ子供だったのでお金の価値観や世間の給料の額や、姉がなぜ深夜にしか家に帰ってこないのか?など何も解かりませんでした。時々、姉が言う「マクドナルド」や「ケンタッキーフライドチキン」というお店がどんな物かも知りませんでした。

でも、大人になって判ったのですが姉は「寝る時間も惜しんで、休みもなく働き」私のために精一杯のことをしてくれたという事です。

そして私が中学の二年生の頃に姉は、急に家に帰って来なくなり数か月し突然帰ってくると、おばに「私、結婚するから」と言って結婚式の招待状の様なものを渡し、そのまま家を出て行ってしまいました。

小さい頃、2度ほど姉に連れられて「姉の彼」と一緒に喫茶店に行った記憶があるのですが、姉が当時お付き合いしていた男性は「とても優しい人」で私も大好きで「Zさん」と呼んでいましたが、姉が実際に結婚した相手は、「Zさん」ではなく姉よりも随分と年上の知らない「おじさん」でした。

その人は、いつも家の前まで姉を車で送り、自分はどこかに行ってしまう様な人でした。
姉は結婚しても働き、「仕送り」をしてくれていました。

私は姉が居なくなり「家にお金がないこと」を知っていたので、高校への進学をするつもりはなかったのですが、姉に強く説得をされ中学の3年生の夏頃から受験勉強をし、何とか公立高校へ入学しました。

けれど、私の中では「お姉ちゃんに迷惑をかけている」という強い思いがあり、一年生の夏休みが終わった頃、とある些細な事で「集団いじめ」にあい、ここで初めて「いじめられる事への恐怖心と不安感と身体の拒絶硬直」を経験し、学校に行くことが出来なくなり退学をしました。

ここでも、まだ自分の病状や状態は理解できていませんでした。

中学までは「どんなに、いじめられても」平気でいられた自分がいましたし、「一人の方が楽だ」と思い込み、友達がいなくても寂しいとか学校に行きたくないなどと思った事がなかったからです。

これが、おそらく私の病気の始まりだったのだと思います。


小さい頃から私は、おばに「お前の父親は女を作って出て行ったクズだ、出て行ってからも金の無心にきた」や、「お前の母親は働きもせず、金もよこさず人に迷惑ばかりかけた女だ」と言われて育ってきたので、おばへの不信感と怒りの感情しかありませんでした。

それが故に私の中では小さい頃から「あの女の様な人間には絶対にならない」という強い信念があり、「きちんとしないといけない」という脅迫観念の様な物が存在していたように思います。

中学を卒業すると同時に近所の喫茶店でアルバイトをし学費を稼ぐ生活をしていました。

高校を中退するという事は私にとって辛いことではなく「姉に迷惑をかけないで、今度は私が頑張ればいい」と、ただそれだけで働いてきました。

私は当たり前のように「私が働けばお姉ちゃんは仕送りをしなくて済む」と思い込んでいました。

おばは、相変わらず「いくつもの借金を繰り返し」何度も何度も「数十万円」ものお金の督促状や裁判所からの差し押さえが来たりしました。

親戚や近所の家にも借金をし、連絡がきたこともありました。

それでも私は、「自分さえ頑張れば」と思い、寝る暇もなく休みもなく働き、「生活費と借金」を工面し続けました。


けれど、ある時 姉が私に「今の金額じゃ生活費は足りないから、もっとあげなさい」といった事がありました。

当時の家賃は「3000円」、私の給料は「手取りで9万円ほど」で、おばには「7万円」を毎月の生活費として渡し、「借金の分は別で幾つものアルバイト」をして返していました。時には法にふれる様な男性との関係もしていました。全てはお金のためだったんです。この時の姉は、まさか私が伯母の借金を背負っているとは思っていなかったと思います。私は姉には一切話していないので、ただ生活費を入れているだけと思っていたのだと思います。

けれど、この瞬間、私は全てが嫌になり、姉に「おばさんの生活はほおっておいても良いよ。大人だし生活保護も貰っているから」と言って、一切のお金をおばには渡さず、生まれて初めて自分の好きな事に時間を使う決心をしました。

丁度、大好きだった「レイジー」が解散後「ネバーランド」というバンドを結成したばかりで、まだ「直接お話しが出来る環境」だったので、大好きだったAさんに会いに行くようになりました。

Aさんと色々な場面で「二人きりになれる」チャンスを何度も戴きましたが、純粋に好きすぎて緊張で言葉もでない、近寄れない「ただ見ている傍に居られるだけでいい」という自分がいて、何もできませんでした。ただ、Aさんはとても優しい方で「さりげなく私に声をかけて下さり」写真を撮ってくださいました。当時は「顔を覚えてもらっている」だけで幸せでした。それも長くは続かず、一年程で「姉に泣きつかれ」泣く泣く元の生活に戻るしかありませんでした。

本当はこれも姉がくれた「ほんのひと時の唯一の青春の幸せな思い出」だったのですが、

今、この歳になって「当時の楽しいはずの思い出」がフラッシュバックと共に「姉への罪悪感」で私を苦しめる事になり、心の中が混乱しています。


私が20歳頃、当時4年程交際していた男性からいつも「子供が出来たら結婚しようね」と言われていて、彼の家に泊まったり彼の家庭の事情なども聞かされるようになり、彼の結婚への意識の深まりを実感する様になった頃、急に「伯母さんがいるから父親に反対されたら結婚できないかも知れない」と言われ、私は初めて絶望と人間不信に陥り「男なんて誰でも同じだ。もうどうでもいい」と思ったのです。

生まれて初めて他人である「彼」が信頼できる存在になっていて、私も姉も友人知人も皆が「二人は結婚するものだ」と信じていました。

私は恋愛経験は豊富な方だと思いますが、「人を好きになる」気持ちが、恋愛の中でないのです。また「愛されている」という事がどういう事かも解からないのです。

唯一私の中で純粋な気持ちだけで心から好きになった人は、「保育園でいじめから助けてくれた男の子」と、一年だけ会いにいけた「Aさん」の二人だけだったのです。

Aさんは「芸能人」で、私には「高嶺の花」でしかなく、それでも

当時の私との距離感はすごく近く色々な場面で「二人きりで話せる機会」をたくさん貰い、「私の顔も存在も」お覚えて貰っていたのですが、子供の様に「純粋に好きで触れるのも汚すのも怖くて」何も話せませんでした。

これは、私の中で唯一の「たったひと時の青春の思い出」になるはずだったのですが、現在50歳を過ぎた今、「フラッシュバック」で過去の消えていた記憶が次々に戻り、こんなに素敵だったはずの思い出さえも辛さと苦しさが襲ってきます。

姉にまた迷惑をかけてしまったという罪悪感と、あの時もっと「話していれば」私の人生の何かが変わっていたのだろうか?などと苦しくなってしまいます。Aさんにもっと近づきたくて隠れて友達の付き添いでオーディションに行き、帰りがけに「入りませんか?」と事務所の方から言われましたが、これも家庭の事情で「どうせ私には無理」と思ってしまい諦めてしまいました。今、思うと「結果は郵送で届く」はずなのに直接、事務所の方から誘われたのは「スカウト」に近かったのだろうか?入っていたら私の人生は変わっていたのだろうか?と今更ながら思ってしまいます。



結婚するはずだった相手と別れ、それからの私は自暴自棄になっていて求められるがままに交際をし妊娠しました。

けれど、その彼からは友人を通じて「おろして欲しい」と10万円を手渡されました。

そして私は、「やっとできた自分の家族だから一人で生んで育てる」と決意しました。


けれど、それから直ぐに私が妊娠5か月を過ぎた頃、最愛の姉が幼い次男を連れて「交通事故」で亡くなったと連絡が入ったのでした。

何が何だか訳も解からず、「姉が死ぬはずがない」という思いのまま、急いで姉が住んでいた埼玉の上尾市に駆けつけました。

母の死の時と同じように「全身が硬直」し、動けなくなり涙さえも出せませんでした。

詳しい事情を聴くと、事故の当日に姉は社宅前の道路を挟んだコンビニに横断歩道を渡って三歳になる次男の手を引いて出かけたまま帰って来なかったというのでした。

家では、「留守番をしている」といって一人で待っていた長男が孤独の中を必死の思いで父親の帰りを夜の10時頃まで待っていたのでした。

義兄は「お母さんが帰って来ない」と泣き叫ぶ息子の話を聞き、社宅内の住人に姉の消息を訪ね、「夕方に前のコンビニの道路で交通事故あって警察が来ていた」と聞き、姉が「身元不明の遺体」として警察署に子供と二人「安置」されている事が判ったというのです。

私は、この時 自分を責めました。

それは、前日の夕方(事故の当日の夕方)ちょうど「5時30分」に姉に電話をしたくなり、忙しい時間だから迷惑かもしれないと思い電話をすることをやめてしまった自分がいたからでした。

「あの時、私が電話さえしていたら、どうして電話しなかったんだろう、いつもならするのに、私のせいだ」と思いました。

姉の子供たちは長男は小学校に入学、次男は保育園に入園を控えていたのでした。

そして、姉はこの時「私のことを誰よりも心配し、家を建てていた」という事を義兄から聞かされました。

本当は「義兄のわがまま」が原因で、姉は何度も「離婚したい」と言って精神的に追い詰められて「夜になるとキッチンで酒を飲む」そんな姿になっていたのだそうです。

それなのに、義兄は「絶対に離婚はしない、お前がいないと俺はいきていけない」と言い、この時まで私たちにも何も教えてくれませんでした。

そして、義兄は「姉が、伯母のせいで借金を抱え、義兄が肩代わりすることを条件に結婚をした」事や、「おばの面倒をみるために子供は作らないといった」事や「結婚してからも義兄が仕送りをしていたが、それでも足りず 伯母が金の無心をし姉が借金を残して逝った事」などを聞かされました。

こんなに辛い状況なのに、「どうしてお姉ちゃんは何も相談してくれなかったの」と凄く苦しかったです。

そして、こんなに苦しい状況なのに「それでもまだ自分を犠牲にして私を守ろうと家を建てていた」事に、私は自分の愚かさが嫌になり「私が死ねば良かった」と強く「死」を望みました。生きている自分の存在が嫌になり初めて「自殺願望」が芽生えました。

けれど、その時「お腹の子」が私のお腹を蹴ったのでした。

私は「この子は、ここで生きている」そう思いました。

そして、長男を「一人で生む」決意を新たに強く持ちました。


その後は、姉の代わりに「おばの面倒を診て」一人で働きながら子供を保育園に入れて必死で育ててきました。

そして、長男が小学校に入学する少し前に「お母さん僕、お父さんが欲しい」というので、長男の幸せのために結婚をする事にしました。

見合いをし、長男が「僕、このお父さんじゃないと嫌だ」というので、長男さえ幸せになればいいと思い、結婚を決意しました。

そして、この時が初めて「おばとの縁を切る」きっかけになりました。

結婚した相手の家は農家で、初めは「同居だが、敷地内に住居は別にあり生活も別なので問題はない」と言われ同居しましたが、夫は両親の言いなりの人で

私には「発言権もなく」、病気であろうがなんであろうが夫が両親の前でいい顔をしたいがためにだけ、「奴隷のように働かされ」、義両親からは「嫁はよそ者だから部屋にははいるな」と差別され、義両親のいう通りの生活をしていましたが、一度だけ買い物に出かけ決められた時間に遅れて帰宅すると義母が「自分の子供を放置してどこに行ってたんだ、いつまで出歩いているんだ、私は子供の面倒なんて診ないからな」と怒鳴られました。

挙句の果てには夫から酷い暴力を受け、長男を夫が呼びつけ「今からお父さんは強いという事を見せてやるからよく見ていろ」と言い、私を殴る蹴る、引きず回すなどのひどい暴力を子供に見せつけました。

そして私の悲鳴を聞き義両親が部屋に駆けつけ言い放った言葉は「何をしったったの、まぁ程ほどにしなさいよ」という感情のない冷たい言葉でした。

その後、義両親から呼ばれ私は「離婚させてほしい」というと、義両親は「私たちが居なかったら上手くいくはず。離婚なんて世間体が悪いから転勤と近所に伝えるから家を出なさい」と強引に別居を強いられました。

その後、姑から「あなたには家も親もいない、だから何をしても平気だ。帰るところがないから」と酷いことを言われました。

その上この親は、自分の息子にも「親を捨てて出ていくんだから二人とも財産放棄にサインしなさい」と責任転嫁をし、息子を切り捨てました。

そして五年間、夫との生活をし次男が生まれましたが、夫の暴力は止まず、冬の寒い時期に、ついに私は夫の居ないスキを見て「子供たちの手を引いて、着の身着のまま」の状態で逃げるように家をでました。その時の所持金は自分の貯金箱に隠しておいた小銭をかき集めた「15000円」だけでした。

子供達も、暴力を受けていた事もあり、もう逃げるしか方法はないと思い行く当てもないまま夜遅くに家を飛び出しました。

駅まで夫が追いかけてきて連れ戻そうとしたので、「やめて」と叫んびました。

夫は私の叫び声に逃げるように帰っていきましたが、駅員も見ているのに誰も助けてはくれませんでした。


一先ず子供達を連れて電車に乗り、住んでいた地域を離れ最寄りの駅まで逃げました。そして、思い当たる限りの人に電話をし「一晩だけでも置いてほしい」とお願いをしましたが誰も助けてはくれず、父親の妹(叔母)に電話で「父親の居場所が知りたい」と話し、叔母の所にお世話になることになりました。伯母からは「あんな男の所に行ってはだめだ」と言われました。

おばの紹介で市会議員に会い、弁護士の紹介と生活保護の受給をするように言われ、私は働くと断ったのですが福祉課の職員もきて「こんな小さな子供を抱えて働けないから、あげると言っているんだから貰いなさい」と説得されて生活保護を受けることになり、ようやく自分たちの家も見つかった頃の事でした。

突然、私は体が動かなくなり「その頃の記憶が全くない」状態に陥ってしまいました。もう一人の自分が、その自分を見ている感覚の記憶しかありません。

気付けば、精神科の受診を受けていて「重度のうつ病で生涯完治はしない」といわれた事しか覚えていません。

この状態が「解離」というものだという事は、最近になって初めて知りました。

確か当時は、週一回の通院と投薬とカウンセリングだったと思いますが、病状の事や詳しいことは何も教えて貰えず、入院も出来ず薬の副作用で日常生活もままならず、子供達の手を借りて生活をしていました。

長男が中学2年になった頃、突然「顔も覚えていない父親」が私の家を訪ねてきました。市役所から「扶養紹介」があったらしく父親が「商売をしているので面倒をみる」といい勝手に手続きをされ、強引に大阪に連れていかれました。

結局、父親のいった事も全て嘘で、父は毎日のように私の家に入り浸り、朝から晩まで私を連れまわしたり食事の支度をさせたり、外食のお金を私に払わせたりしました。お金の無心もしました。

なので一年程で、大阪を離れ父とも縁を切りました。

父は、相変わらず「女好き」だったようで母と別れてからも次々に新しい女性と結婚し、私の他に「腹違いの兄妹が6人」もいるようです。

商売をしているというのも嘘で、私が大阪に行った途端「俺はもう働きたくないから生活保護をもらった」と言いました。

ここでも、私は父親に振り回され、病状が悪化し今思うと「幻覚と幻聴」ではないかと思う症状が出て「気が狂うほど」に悪化してしまいました。

これも、今年になって良い病院に出会い、解かった事です。


大阪から地元に戻り、また初診の病院に戻り数年間 変わらない生活をしていました。

そんなある時の事です。あまり記憶がないので詳しくは説明できませんが、「過去の記憶」の全て(幼少期からの嫌な時代の記憶)が消えてしまいました。

精神的に「楽」になった感じでしたが、子供が過去の話をしつこくすると「記憶喪失」のように頭が痛くなりました。これが「解離性権謀」だと思います。

ですが、このお陰で後に私は10年程は記憶がなく自分ではすごく楽で、仕事にも復帰出来るようになりました。もう治ったとまで思いました。

ただ、過去のトラウマがあるので「職場でのいじめ」などで発作が出る事も多々ありました。全身が硬直して恐怖感が強く出るのです。

それでも、このころは「具体的なフラッシュバック」のような物は感じておらず、自分自身でも「硬直と恐怖感」はどうして起きているのか?理解していませんでした。


長男は「俺のせいでお母さんを苦労させた」というトラウマを抱え、高校一年生くらいまでは、とても優しい子でした。

ただ、長男は「私に虐待をした伯母」と幼少期に生活を共にしているので、伯母が長男の前で暴言を吐き「この女のいう事なんか聞かなくていい」と言った頃から「欲しい物を我慢できない」子供になっていて、次男に対してもアルバイトをするようになってからは「お金で次男を手名づけ」たり、私の前で次男に「この女のいう事なんか聞かなくていい」と、伯母と同じ暴言を繰り返すようになり、大暴れして壁に穴をあけ、家具をひっくり返し次男が下敷きになったりして私に叱られると家を飛び出すようになりました。

高校二年生になり「ネグレクトの家庭で育った友達」と仲良くなると、長男の反発は急加速し、手が付けられなくなってしまいました。

次男も当然のように全くいう事を聞かなくなり、金品を盗んだり万引きをするようになりました。

私は自分が「食事も与えられない子供時代」だったので、子供達にはできる限りのことをしてあげたいと思い必死で育て家事なども精一杯し、ゲームなども十分な程に与えてきたのですが、長男は「ネグレクトの家が羨ましい、うちは煩い」と怒鳴り数か月も家出をしました。

次男も小さい頃から「自由の何が悪い」と叫びながら家を何度も飛び出していく様な子供でした。

次男は、後に「発達障害」があることが判ったのですが、小学校の担任教師にも「こんな変な子の面倒なんて診られない何とかして」と何回も怒鳴り込まれました。


そんなこんなしながら親子三人でどうにか働きながら生活をし、ようやく長男も成人し長男名義で中古物件を購入し落ち着いたかのように見えた矢先の事でした。

長男は仕事は真面目に行っていましたが、高校時代のネグレクト家庭の友達とは付き合っていて、長男の反発はどんどんエスカレートする一方で、会社の中でも自分の不満を話していたようです。気に入らないと「ありもしない」私の悪口を社内で話していました。

そして、家に帰ってくると「会社の誰々がこう言っていた」、「お前は今までひとつでも親らしいことをしたのか」などといい、私を強く罵倒し何も言わせないように攻撃と支配をするようになりました。

どちらが親か解からないほどの酷い状況で、家庭の中は荒れ果ててしまいました。

そして、ある日の事ですが長男が私に「お前、普通の結婚したことないだろう。普通に付き合って結婚すればいい」と言うのです。

「ただし、俺はたぶん40手前までは結婚しないから、頼むぞ」というのです。

確かに、この頃の長男は何でもかんでも私に「依存」をし、「自分の車探し」まで私にしろ等と強要し、私が質問をするだけで怒鳴り、自分の思い通りにならないと暴れて始末に負えない状態でした。

次男もどんどんいう事を聞かなくなり、長男と陰でコソコソしていることも多々ありました。
私は精神的に「このままだと死んでしまう」という所まで追い込まれていたので、長男から離れたいと考えました。

長男が「結婚しろ」と言ったのがキッカケとなり、長男を自立させるために再婚を決意しました。

しかし、再婚相手は「誰から見ても聞いても、こんないい人はいない」と勧められた人だったのに、現実は「多面性」があり、長男に「嘘を吹き込み」家を追い出してしまいました。当然、私には「良いこと」しか言いませんでしたので、この男によって私達親子は騙されたのです。

この男も「子供のへの暴力」や私への「暴言」「脅迫」(○○なら死んでやる)「家出」などを繰り返し、挙句の果てには仕事を辞め、金の無心をするようになりました。

男の子供達も小さい頃から暴力を受けていたので、「発達障害」などの兆候が強く、金品を盗んだり家出を繰り返したりして、私一人で面倒を診る事が不可能なので、児童相談所に相談し引き取ってもらいました。

担当者は「今まで一人でよく頑張ってこられましたね。子供達は施設の方が幸せに暮らせると思います。父親の暴力もないし規則正しい生活ができますから」と言われました。

この男は「子供が居なくなってせいせいした」、「俺が親父に包丁を投げられた同じことを自分の子供にして何が悪い」と言ったのですが、その後で「お前が勝手に施設に入れやがった、俺は子供と一緒にここで料理をしたりして生活したかった」と逆上したのです。

あまりにも理解できない状況なので「精神科医に検査」をしてもらうと「強い人格障害圏にある」(反社会性)で、「悪い事を悪いと思わない、何度でも犯罪を繰り返すタイプ」「ヒナが口を開けて餌を待つ様に人に依存し、人を思うように操り、思い通りにならないと暴力をふるう」と説明されました。

この男が、「私を虐待した伯母」と同じ行動と言動を繰り返したため、消えていたはずの過去の記憶が「一気にフラッシュバック」し、私は「もう死ぬしかない」とまで追い詰められてしまいました。

それでも、男は「絶対に出て行かない、別れない」と言って微動だもしませんでした。苦しむ私をしり目に「平気でご飯を食べる」そんな男でした。

私と結婚する前に住んでいた家は、会社の真ん前にあったのですが、子供達への暴力なども誰も気づかず気にもせず「良い人だ」と言われていた事が疑問でなりません。

この時は、こんなにひどい状態でも私は生活のために仕事をし、睡眠時間2時間という時もありました。家事も手抜きせず、子育ても精一杯してきました。

しかし、男の子供達が居なくなり今度は次男への暴力が始まり、次男も男の子供の影響で「金品を盗み、素行も悪くなり」私に叱られると逆上し「家を出る」と聞かないので、私は次男が家を出て行かないように縛り、深夜に児相に電話で助けを求め、次男も施設入所することになりました。

警察にも相談はしたのですが、「家庭内の事に関与しない」という事で何もしてもらえませんでした。

おそらく「伯母への反面教師」という強い「気力」だけで乗り切っていたのだと思います。
けれど、もう自分が生きていられない程に「生き地獄化」した環境に耐えられる限界を超えたので、民生委員や相談機関などに相談しましたが、何もしてくれなくて「あなたの妄想だ」とまで言われ、仕方なく長男に連絡をして、男を追い出してもらいました。

そして、長男がまた家に戻ってきましたが、長男との関係は冷え切ったままで「俺はお前なんか信用していない」と言われました。

男との離婚には長男を交えて「離婚協議書」を作成したものの男がまた収拾のつかないことを繰り替えし、結局は弁護士を入れ地方裁判所での民事裁判と調停で数年かかりました。その後も、慰謝料の支払いが遅れるばかりなので私は「自分で強制執行」の手続きをし、半年が経過した頃に又 この男が意味不明な理由の「裁判」を吹っかけてきて、私はまた「自分で裁判」をし、男の言い分は当然のごとく「棄却され」ようやく全ての問題が終わったのが、3年程前のことです。

現在は、5年程前に長男とも離れ一人で暮らしています。

昨年末まで2年程通っていた「精神科クリニック」で「主治医からの暴言や罵倒による被害」にあい、病状はさらに悪化し今年の一月にようやく大きな病院に転院し、病名も「複雑性PTSDによる合併症」だと判り、「障害認定」と「障害年金」も受給し、院内ケアー(デイケアとカウンセリング)訪問看護、家事援助ヘルパーなどの支援にこぎつける事ができました。

自分の病気の症状などがだんだん理解できてきましたが、「フラシュバック」や「パニック発作」などは頻繁にあり「解離」もしますので、不安定な日々が続いています。テレビやネットなどのニュースドラマでも影響がでます。

虐待や暴力、事件、事故の被害者や遺族や関係者は、計り知れないほどの苦しみを抱えて生きています。外からは決して見えるものではありません。

また、暴力などを長期に渡り受け続けると「感情の起伏」や「記憶」なども崩壊してしまうため、自分の気持ちや症状なども上手く言葉で伝える事ができなくなってしまう事もあります。
元気そうに振舞ってしまったり、辛い事を隠そうとする意識が能で知らず知らずに働いてしまいます。

暴力などが酷ければ酷い程、隠してしまう、頑張りすぎてしまう傾向が強く見受けられます。そして、多くの被害者は後悔と罪悪感から「自己否定が強く」なり「自分を責める」傾向が強く出ると思います。


----------追記文章「性的な暴力」について------------

インターネットで投稿先や配信先を調べていると「性的暴力の被害」という言葉を見つけました。今までの自分の中には「性的な暴力」=「幼少期に親からされた経験」や「レイプ」などしか視野になく、自分と照らし合わせた事がありませんでした。しかし、この「性的暴力の被害調査」というサイトの内容を見たときに、自分の中にも経験があることに気づき、追加文章を書くことにしました。


「以下、詳細」

上記の様に「DV」などの被害にあい育ちましたので、恋愛に関しては「普通」ではなかったと思います。

恋愛経験の数から言えば少なくはなく、男性経験も多い方だと自覚はしていますが、どうしても自分の中に若い頃からある違和感が強く存在していました。

小さい頃から家庭内には男性がおらず女系家族で育ったのですが、自分では環境があまりにも複雑すぎて何がなんだかわからないまま昨今まで生き延びてきました。

恋愛という物については、小学校の頃から頻繁に男性のアプローチを受けていましたし、スカートめくりや給食のおかづをいつも同じ男子に取られたり、数え着ない程の色々な事がありました。大人になってテレビなどで初めて、この様な事をする男子は「好きな女の子へのアプローチ」だという事を知りました。

けれど、私のなかでは凄く嫌な経験としての記憶でしかありません。

当時の小中学校では黒板に誰かが面白がって「相合傘」に「男女の名前を書いて」クラス中の噂話になり「クラス中でからかい」凄く嫌な思いをした事が何度もありました。私が好きな人ではないのに、相手の男の子が私を好きだと誰かに言えば、直ぐに黒板に書かれ「からかわれ」これも今でいう、「いじめ」の対象になると思います。

学校の担任教師も、そのこと知っていても「生徒たちが無理やりに学級委員に推薦し面白がって相手の男の子と一緒に学級委員にされた」事もありました。

当時は、「賛成意見が多ければ」断る事が許されず担任により強引に決められてしまいました。

社会人になってからも、ナンパに合う事も数えきれない程あり、仕事の帰り道に車で着いてこられた事もありますし、家の前で車が止まりナンパされた事もあります。

通勤電車の中で若い男性に長時間に渡り「性器」をこすりつけられた事もあります。

また、姉が亡くなった直後に義兄から「お前はお姉ちゃんに凄く似ている、俺とそういう関係になってないから、なってくれないか?結婚してくれ」と言われ、凄く気持ち悪かったです。

水商売のお客さんの「おじいさん」にカウンター越しに「手を握られ、一回10万円でどうだ、援助してやるから俺の相手をしないか?」と言われ、これも凄く気持ち悪かったです。「30万円のロレックスを買ってやる」と言ったお客さんも居ました。

全ての男性とお付き合いした訳ではありませんが、真面目な顔で「付き合ってください」と言われたりすれば私も理解ができたし、付き合う付き合わないの判断はしていました。

明確には覚えてはいませんが、性的な関係を持った男性は「お客さん」も含め両手では足りないと思います。

私の中にいつもあった「違和感」というのは、「男性器」が若い頃から

見るだけで「気持ち悪くてグロテスク」にしか思えず、性交渉をする事には「何の感情も抵抗もなかった」のですが、とにかく男性の裸や性器が気持ち悪くて見たくありませんでした。
その理由は今でもわかりません。

ただ、交際に発展する相手は「いつも押しが強い人」ばかりで、自分が好きとか嫌いとかの感情はなく「相手の押しに負けて交際する」事ばかりでした。

家庭の中に自分の居場所がなく、複数の男性と同棲生活を繰り返した事もありました。自分では何を求めていたのか?今でも判りませんが、誰かに傍にいて欲しかっただけなのかも知れません。小さい頃から「ドラマの様な幸せな家庭」に憧れていたせいかも知れません。

上記にも書いた様に「伯母の借金」を稼ぐために水商売もしましたし、そのお客さんに強引にホテルなどに連れて行かれ性交渉を求められ、断れずお金を貰った事もありました。

ただ、車に連れ込まれたり浚われたり、拉致されたりなどという命をも脅かすような危険な目には合ってはいません。

私の中では、今も似たような感覚があるのですが「男性」として意識をして見るというより「一人の人間として」全ての人を見ているという感覚が強いので

相手が私を「女」として意識している事に「気づかない自分」がいたりして

相手の気持ちを解からず食事などに誘われても「友達」だと思っていて、気づかず、そのまま交際に発展しなかった人も数えきれない程いました。

今は「綺麗だね」とか言われたり目線などから「私を女として意識して見ている」事が判る様になったので、そういう男性がいると「精神的に気持ち悪く」感じてしまいます。

また、10人ほどの男性ツーリンググループの「マスコット的な存在」だと言われ一緒に遊んでいた時に、その中の「二人の男性から、同時に二人がかりで襲われ」その時は、拒絶し その場から逃げました。

ここのメンバーは皆、私より一回り近く歳が上だったので、この人達も私の中では「お兄ちゃん」的な存在でしかなかったので凄いショックを覚えた記憶があります。「兄いちゃん」として慕っていた人のグループメンバーだったので余計にショックで「お兄ちゃん」にも何も言えず疎遠になってしまいました。

今、思うと「ストーカーの様に」毎日、私のバイト終わりの時間に「二か月も通い交際を求められた男性」もいました。この人も根負けして交際をしました。

友人知人からは「もてるから羨ましい」と良く言われていましたが、私には全く「その意味」が理解ができませんでした。

確かに、アルバイトや仕事の場でも男性客や職場の上司や同僚の男性からも声をかけられたり、食事などに誘われたり、交際をしてほしいと何十人にも言われた記憶が今、戻ってきました。

お客さんの中には、後ろからきて「私の下着の中に手をいれた」おじさんも居ましたが、当時の私には「叫ぶ」事も出来ず誰にも話せず、黙って自分の中にしまいこんでいました。

四年間の交際をし結婚の話まで進んだ彼も、相手から求められて交際しましたが

最後まで「愛されている」という感覚も解からなかったですし、自分の中に「好き」とか「愛している」という気持ちも存在はしていませんでした。彼との性交渉についても「ただ求められるから応じる」という感覚でしかありませんでした。

ただ、彼はとても優しく「かゆい所に手が届く」程、いつも私の為に何でもしてくれましたし、私が泣いたり悩んだりすると直ぐに駆けつけてくれる人だったので「この人なら信頼できる」と思っていました。男性で信頼できると思った人は、彼だけでした。

結婚もしましたが、二人ともDV夫だったので「殴られた後に無理やり性行為」を強要され、最初の夫は「私を押さえつけ、殴り大人しくさせ」自分の欲求を満たすためだけに性行為をしてきました。

次の夫も「異常者」で子供への暴力も目の前で見ているし、逆上すると何をするかわからない男だったので「性行為」に関しても、強引で私は「恐怖心」があったので断る事も出来ず、夫の気が済むまで「長いと2時間を超える事も」従うしかありませんでした。

こうして書き出してみると、私も「性的な暴力」の経験がたくさんあることに気づきました。こういう繰り返しが原因なのか?わかりませんが「とにかく男性器」が気持ち悪くて「性交渉」では、一般的にいう「感じる」や「気持ちいい」などという感覚は全くなかったです。ただ、人形の様に「黙ってされるまま終わるのを待つ」という感じでいました。私の時代は、現代の様に「色々な法の整備」がなく、「虐待やDV」「性的暴力」などという「言葉」すら聞いた事もなく育ってきましたので、今になって色々なニュースや情報を見ていると憤りを凄く感じてしまいます。